イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「神去なあなあ夜話」読了

2020年07月08日 | 2020読書
三浦しおん 「神去なあなあ夜話」読了

「神去なあなあ日常」の続編だ。角幡唯介との対談で、「なあなあ日常」は林業に振りすぎたので、神去村についての記述をもっとしっかりしたかったということでこの続編を書いたと言っていた。どちらかというと“日常”はこっちの方が色濃いかもしれない。
「なあなあ日常」はある年の1年間、「なあなあ夜話」はその後の1年間という流れで書かれている。もちろん、主人公と直紀との関係がどう進んだかということも書かれている。

そこには村という集団がどうやって結束を固めて時代を繋いできたかということが書かれている。人は死ぬと魂は神去山に棲んでいるオオヤマツミノカミの元に帰ってゆく。村人たちは大いなる魂の流れの中でひとつになっている。これが一番の根底になっている。全員が同じ考えを持っているから職業や年齢の違いを超えて同じ価値観で生きることができる。
いつかはそこへ戻っていくのだという考えというのは貴重だ。それこそ、“根”という感覚というものだろうか。どこにいても帰る場所がある。その安心感というのは人にとって重要なものだと思うのだ。根を持たなくてもノマド感というもので人生を送ることができる人もいるのだろうがそれはきっとごく少数に違いない。とくに日本人は。
僕もそのひとりだろう。意味もなく、前に進めない夢を見てしまうのも、どこか、根を探さなくてはならないという焦りかもしれない。

ムラ社会というのは閉鎖的で外からのものを受け入れない。これをムラの悪とよぶ人もいるのだろうが、それはきっとそれを信じることができないよそ者のほうが悪いのかもしれないとこの本を読んでいると思えるところがある。まあ、登場人物がすべて善人であるという想像上の設定というところも大きいかもしれないが・・。

しかし、まったく違う場所から集まってきた人の中でお金をもらい、生活とは切り離され、生活の中でも全く違う場所からやってきた人たちが何の交流もなく生きている。どこどこの誰がいつ何をしていたというのがつつぬけというのもあれだが、マットレスを不法投棄したのが誰だかまったくわからないというのも異常だ。よく考えるとやっぱりそれはおかしなことかもしれない。物語ではそのつつぬけ具合も小気味よく表現されていた。主人公は直紀さんとの接近戦略に巧みに利用していた。
そんないびつな生活様式を維持するために膨大なお金とエネルギーを必要とする。
それが今の社会のような気がするのだ。他人からの干渉を避ける、自らひとりでムラ社会を築くための経費だ。
物語の登場人物たちはそのエネルギーを使う代わりに濃厚な人間関係の中で生きている。
それは一面では相当面倒くさいことかもしれないが、実は人の本来の生き方というのはそういうものであるのかもしれない。そしてその中心には神様がいて人々も神様にいつも見られているから秩序を守る。タガにもなりゆりかごにもなるというのが神様だ。

今回のコロナショックでは日本は他国に比べて感染拡大を防げているということになっているが、日本人がこういう濃厚な交流を失くしてしまった結果ではないのだろうか。
それはいいことだったのかそうでなかったのか・・。


映画の方というと、直紀役は長澤まさみだった。6年前の映画だから桜庭みなみではちょっと若すぎたのだろうか・・。それはそれで長澤まさみもはまっていた。
本とはかなりストーリーと登場人物の立場が違ったりしたが、なかなかエスプリは汲みだしていたような気がする。

僕も角幡唯介の本を読んでいなかったらこの映画もただのお仕事映画(そんなジャンルがあるのかどうかは知らないが・・)として見ていたのかもしれない。
その物語に神様の存在というのが相当なふくらみを与えてくれたような気がする。
そもそも、この本を読むこともなかったのかもしれない。

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「神去なあなあ日常」読了

2020年07月06日 | 2020読書
三浦しおん 「神去なあなあ日常」読了

この小説の舞台は、三重県の中西部にある神去村である。「なあなあ」というのは、「ゆっくりいこう」「まあ、落ち着け」という意味で、この村ではあいさつ代わりに使われるという設定である。

なかなか軟派な本だ。お仕事小説というジャンルがあるのかどうかは知らないが、若者が不本意ながら林業に挑むという設定だ。
ぼくがどうしてそんな軟派な小説を読もうとしたかというと、以前に読んだ、角幡唯介の本に三浦しおんとの対談が掲載されていて、この本を話題に上らせていた。
普通に読むと、都会の若者がひと癖もふた癖もある人たちに囲まれ、ドタバタに巻き込まれながらも小さな村の林業に携わることを通してたくましくなっていく、そこに「林業あるある」を挟み込んでというコメディタッチの物語なのだが、角幡唯介はその一場面、主人公の親方の子供が神隠しに遭うというところに注目していた。
実際小説の中では本当に神隠しに遭い、とんでもないところから子供は見つかるのだが、これは小説の中の話であって実社会の中で考えるとそんなことはありえず、また、読者は誰もそんなことを信じでいない。しかし、おそらく、つい最近、といっても高度経済成長期がはじまるくらいまでだろうが、大半の日本人はそういったこと、神様がどこかにいるということを信じていた。
そういうことがなくなってしまったことが現代の社会のひずみを作り出しているのではないかと、そういったことを話していたのだ。

この本には村人が示す様々な神に対する畏れと感謝も書かれている。山の巨木への敬意、それがクライマックスのオオヤマビトの神様の祭りにむかっていくのだが、最初はそんなファンタジーめいた風習を半分バカにしてなじめなかった主人公が、すこしずつそういったことを通してひとはどう生きるべきか、どうつながるべきか、そういうことを学んでゆく。

著者はおそらく、人の根の部分をどこに求めるのか、そういったことを一部では書きたかったのではなかろうか。モデルになった場所は著者の祖母のふるさとの村だそうだが、そこと自身の都会での生活を比較したとき、人と人とのつながり、また人と自然のつながりの濃度の違い、そういったことを無意識に意識したのではないだろうか。
村の人たちは神様を通して根のところがお互いにつながっている。だから分かり合い助け合える。そういうものが都会にはない。僕も隣の家の家族のことを全く知らない。都会でなくてもこうだ。
こういうところでは町内の誰かがゴミ捨て場に不法投棄したマットレスがあちこち旅をすることは決してない。



それはきっと不自然なことであると著者は物語のひとつの側面として言いたかったように思う。
リアルなムラではこんなにさわやかな人たちばかりではなかろう。プライバシーがなく、嫉妬や噂話が人を窮屈にさせる。
しかし、物語ではそれもさわやかに受け止めている。まあ、そこはやっぱり小説として受け止めなければならないのだろう。
でも、僕は、そんな世界が嫌いではないと思う。きっと。(実際、放り込まれるとどんな印象を持つかはわからないけれども・・)


この小説を原作にして、「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」という映画が作られている。明日は雨の休日だ。DVDを借りてきて観ようと思っている。
小説で、主人公が片思いをする直紀という女性が出てくるのだが、この役は誰がやっているのかがものすごく気になる。無茶苦茶美人だが、ちょっとつっけんどんで、主人公を振り回すのだが、根は心優しい行動派。僕のイメージでは桜庭ななみしか思い浮かばない。
まだ、映画の予告編の動画も検索していない。これはDVDを見るまでの楽しみにしておきたいのだ。
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『禅と食 「生きる」を整える』読了

2020年07月05日 | 2020読書
枡野俊明 『禅と食 「生きる」を整える』読了

禅宗のお寺で、「典座(てんぞ)」という役職はお寺の坊さんたちの食事を作る役職だが、お寺の中ではナンバー2の位だそうで、この役職を経験して住職になる坊さんも多いそうだ。
特に曹洞宗ではこの、食事をすること自体、もしくは作法は修行の中でも非常に重要なものであると位置づけられているらしい。
この本は、その「食事」をキーワードにして禅について解説している。

曹洞宗には、食事にまつわる三つの心というものを重要視している。それは、

「喜心」食材の恵みに感謝して料理を作る喜び
「老心」親が子を思うように相手を思い無償の愛情を持ってもてなす喜び
「大心」大山のようにどっしりとさせ、大海のように広々とさせ一方に偏ったり固執したりすることのない心。どんな相手にも分け隔てなくもてなす心。

というものである。

何に対しても執着せず、何に対しても惑わされない心、が大切であるということを言っているのだろうが、よくよく考えれば、そういう心を持つためには、本当に仏教の修行をして、煩悩を断ち切り、そういうものを入れておく入れ物を消し去るか、そうでなければ、「衣食足りて礼節を知る。」というけれども、自分の生活に一切の不安がなくならないことにはそんな境地にはならないのではないかと思うのは僕の心が狭いのであろうか。
どこからが一切の不安がなくならない状態なのか、それはよくはわからないけれども、人生の第4コーナーを曲がる頃になると、老後の資金とか、生きがいとか、そういうものに不安がないということが生活に一切の不安がなくなったということになるのだろう。
世の中にキレる老人が多くなったというのも、心のどこかにそんな不安を抱えているからそういうことをしてしまうのではないだろうか。

自分を振り返ると、この先の不安もあるけれども、今をなんとかしたい。毎日会社には行くのだが、常に、一体何をやっているんだと思いながら1日を過ごしている。会社は能力のある人にはそれなりの地位と仕事を与え、そうでない人にはそれなりの仕事とそれなりの給料で待遇するという方針らしいが、ぼくは間違いなく“そうでない人”に堕とされているようだ。そこで、いやいや、僕は別に会社から給料をもらわなくても生活には困らないだけの財産があるからなんとも思わないよ。という人であれば何の悩みや嫉妬が起こらないのであろうが、悲しいかな、僕の人生では意外と会社での立場が自分のアイデンティティの大きな部分を占めていたようだ。収入の面も当然・・。

今までのキャリアにゼロを掛けられるとそこにはお寺で修行をしたように悩みを入れる器もすっきりなくなってしまうのかと思いきや、そこには滓のような劣等感だけが残ってしまう。
そんな滓が感謝や愛情や分け隔ての無い思いやりのこころを覆い隠してしまう。
そして最近、何を焦っているのか、走っても走っても川上に向かって水の中を歩いているように前に進まない。またそんな夢を見るようになった。まったく禅の心の欠けらも見つからない。そんな毎日だ。

左斜め前の座っている同僚は、自分は会社人としても社会人としてもすばらしい人間だと思っているようだ・・。でも、いまだに平社員でそれも経歴を聞くと様々な部署を渡り歩いているというのはそれぞれのところで評価が低いから出たり入ったりを繰り返してきようにも見える。ということはほぼ僕と同じで最低の評価をされているのだろうけれども、そういうことに気付かないのだろうか。それとも気付かないふりをしているのだろうか。最後に“そうでない人間が来る部署”に流れ着いて、どうして自分自身をそんなに評価できるのか・・。そしてどうしてこんな仕事に誇りを持てるのか。一度聞いてみたい。聞かずともわかるのは彼はきっといつも幸福感を感じているのだろう。何も考えずとも禅の心が身についているらしい。しかし、あの肥〇度と浮浪者が出すのと同じ成分の悪臭とアンモニア臭で自分自身を律することができているとは思えない。
脳みそをかち割って中を覗いてみたいものだ。

一切衆生悉有仏性という言葉があるけれども、僕にはあったとしてもその残量はごくわずかだ。こんなのってチャージすることはできるのだろうか。それはどうやったらできるのだろうか。そんなことしか感想として書くことができない・・。

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水軒沖釣行

2020年07月03日 | 2020釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 3:57満潮
釣果:サバ 8匹 丸アジ 10匹 

今日は出港前に昨日オープンした「わかやま〇(マル)しぇ」に行ってきた。ここは和歌山中央卸売市場の北側にあった施設が老朽化したので建て替えられ、その際に、一般人も利用できるようにしたものだ。
ひと月ほど前に箕島に同じような施設がオープンしたのでここも興味があって期待して行ったのだが、そこはあまりにもマニアックな施設だった。
物販と飲食ができるということであったが、物販スペースは卸売市場そのものであった。以前の施設はもともと食堂や駄菓子、漬物など日配品っぽい商品と市場に出入りする人たち向けの食堂があって、建て替え前の施設というのに行ったことがあるがそれのままであった。
小さく区切られた区画に仲買人の店が入っているのも同じ方式だ。建物は新しいが中の什器はその場所からそのまま持ってきたところが多い感じだ。何かここだけの商品が置いてあるのかと思いきや、仲買人の店だから小売店に卸される商品が並んでいるだけだ。シャウエッセンも売っていた。卵の仲買人は店の入り口で椅子に座って腕組みしている。

 

食事のスペースはまだ開店前だったのでどんなイメージかはわからないが、業者向けにすでに開店していた店の天ぷらは美味しそうであった。



僕が釣りに行く前に訪れることができるというのはこの施設、午前2時が開店時刻だ。物販ゾーンは午前7時には閉店するというのだから完全に玄人向けの施設といえる。だからマニアックだ。市場フリークの人たちにはパラダイスというところだろう。もちろん僕もこんなところは大好きだ。
あとは鮮魚が格安で買い物ができればいうことがないのだが・・。
和歌山市では、ワールドツアーの客船を迎えられるフィッシャーマンズワーフ的な観光地に作り変える計画であったらしいが、どこを紆余曲折したのか、市場に逆戻りしてしまったようだ。まあ、行政あるあるだが、変に過剰投資せずに施設の建て替えだけやって投資回収をするというのは不安定な観光需要をあてにするよりもはるかにいいのかもしれない。

その前にいつものスーパーに寄ったのだが、レジ袋は今月から有料。ディスプレイの表示も変わっていた。




見学が素早く終わってしまったので出港は午前4時。夏至が過ぎてすでに2週間ほどたっていてしかも雨が降る寸前の曇り空なのでまだ真っ暗だ。
仕掛けを下し始めてやっと北の空に明るさが出てきた。



今日は連日のボウズを回避すべく、絶対安定のチョクリ釣りだ。雨が降る前に図書館に行って前回の休日に診察してもらえなかった整形外科にリベンジしに行かねばならないので素早く勝負をつけて帰ってこなければならない。

水軒渡船でもサバが釣れているのでそう遠くへ行かなくても大丈夫だろうと考え、紀ノ川沖40メートル地点からスタートした。
幸先よく置き竿にアタリが出て、アジサバ合わせて5匹。しかしその後はアタリがない。生け簀の水を見てみるとかなり濁っている。きっと川の水が混じっているのだろう。
それを避けて少し南下。
ポツポツとアタリがあって、サバとアジがうまく混じりあって上がってくる。今晩のおかずと叔父さんの家に持っていく分が確保できたので午前6時に撤収とした。
前回と2日間の釣行でも燃料ゲージは1コマ減っただけだ。下手な考えをせずに近くでチマチマやっていたほうがいいのかもしれない。

家に帰って図書館へ。さすがに午前2時に起きるとウ〇コが出ない。しかし、僕の体質かどうか、本屋や図書館に行くとほぼ必ず便意を催す。今日も図書館のトイレで無事にひねり出すことができた・・。



それから整形外科へリベンジ。
今日は予約の10分前に診察してくれたのでせっかく分厚い本を持って行ったのに20ページも読めなかった。
医師が代って初めてなのに足をコキコキして診てくれることもなく、「どうしますか~。薬続けますか~。」って僕に聞いてくれるな!・・。
「僕が新たに診させていただきます。」と、お医者さんがあまりにも腰が低いのもなんだかこれも逆に不安になる。医者というのは、「俺に任せておけ!!」といいうどっしりと構えた態度のほうが頼もしいのだ。
こんなに医師によって診察に費やす時間が違うというのはやっぱり診察料は同じでもクオリティの違いってあるのだろうか。
まあ、今のところ、湿布と飲み薬を欲しいだけなのですぐに順番が回ってくるほうがありがたいのではあるけれども・・。

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「この道をどこまでも行くんだ 」読了

2020年07月02日 | 2020読書
椎名 誠 「この道をどこまでも行くんだ 」読了

これも椎名誠の新刊だ。先に読んだいくつかの本のように、過去に旅した先についての回想のような形になっている。「東京スポーツ」に連載されていたものをまとめたものである。楊 逸の本のように、これも1編が3ページほどの短いものだ。最近はこういう短いエッセイが流行しているのだろうか?せっかくの文章力のある作家たちなのだからもっと長い文章で表現してくれても僕の方はいっこうにかまわないのだが残念だ。逆に少し物足りない。この人たちならもっとグッと迫ってくる文章を創ってくれるのではないかと思うのだ。

前に著者のこのような本を読んだときは、過去のことを思い出して書いているなんてこの作家も歳を取ってしまったな・・。というような感想を持ったけれども、この本の一番最初の部分に書かれている、『最近はようやく落ち着いて、そうした昔旅した遥かな場所のいくつかを唐突に思い出したりするようになった。旅先で撮ってきた写真などを見ると、数十年前のものであってもその時の空気感を鮮烈に思い出すことが多い。』という一節を読むと、逆にこういった財産を持っている人というのはきっと幸福なのだというように思えるようになった。
人間の大きさは移動した距離に比例するのだというようなことをどこかで読んだことがあるのだが、そういう意味では著者は世界の辺境の隅々のすべてと言っていいほどの場所を訪れている。読んでいても僕の想像をはるかに超えていてなかなか具体的にイメージすることが難しいが極端な低温や高温。極端な乾燥、これは何だと思う食べ物などの話を読むと、世界は広く、こんな満員電車に乗って給料をもらいに行かなくてももっとほかの道もあったのではないかとつくづく嫌になってくるのである。




各章には1枚ずつ著者が撮影した写真が掲載されている。昭和軽薄体を乗り越えたどこか落ち着いた文章と相まってどれも静寂を感じる雰囲気だ。

写真というと、オリンパスがカメラ事業を売却したというニュースを見た。
リコーのカメラを息子に破壊された後、お金がないので9700円で買ったのがオリンパスのカメラを使い始めた最初だ。値段はリコーの半額ほどだったが、そのコンパクトさと写りの良さに驚いた。キャノンの安い一眼レフを持っているが、これは技術が皆無ということもあるのだろうが、オリンパスのコンデジのほうが間違いなくキレイに写真が撮れているように見える。24倍の望遠というのも海の上で使うのにはありがたかった。
当時はすでにリコーもオリンパスも同じ資本の会社になっていたから両社ともカメラについてはいいものを作っていたのだと思う。最初のカメラは海の上で動かなくなり、せっかくなので解体してみたら筐体のなかは小さなゴミがいっぱい入っていた。多分かなりのゴミはヌカのようだった。こんな状態ではさすがに画像に黒い点が入り鏡筒が固着してしまうよなと思った。使い方が悪くてカメラには申し訳ないことをした。防水も防塵も機能として搭載されていないカメラにとっては僕の使用環境は過酷すぎるようだ・・。



そして、こんなに複雑な構造のカメラを9700円で売っているようではそれはメーカーも撤退したくなるよなと思った。絶対利益は出ていないぞと思う。むしろ、売るたびに赤字になっていたのではないだろうか。
ここにも自由主義の矛盾を見てしまった思いだ。

僕はスマホを持っていないのでカメラがないとブログを書けない。黒いオリンパスが壊れそうになったとき、パナソニックのコンデジを買ってみたがあまりにも操作が複雑でこんなの釣りに持っていけないと思い、楽天のサイトをうろうろしていたら、中古のカメラを買うという方法があることを知った。
6500円で買った中古は液晶が黄ばんでいる以外は正常で写りもいい。1年ほど使っているが最近、Amazonでもこのカメラの後継機種の中古をみつけ衝動買いしてしまった。だから画像には3台のオリンパスが写っている。



中古の玉もどんどん減っていくだろうから、僕の選択肢がなくなってきてとうとうブログに写真を掲載できなくなる日が来るのではないかという危惧もあるが、2台あれば当分はなんとかブログを書き続けることができるかもしれない。
がんばれオリンパス・・。

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「旅人の表現術」読了

2020年07月01日 | 2020読書
角幡唯介 「旅人の表現術」読了

著者は2010年に「開高健ノンフィクション賞」を受賞した探検家だ。以前に「空白の5マイル」という本を読んだがそれが受賞作品である。この本は、時間が前後して書かれていたり、地理的な位置関係も僕には理解しがたかったりしてあまり面白いと思わなかったのだが、著者が書く文体には何か引きつけられるものがあると初めて雑誌の連載を読んだ時から思っていた。
ついこの前、新聞のコラムにこの人の書いたものが掲載されていて久々に著作を探してみた。
このコラムも面白かった。著者はその頃、ロシアからカナダに向けて北極圏を旅(最近では海が凍ることが珍しくこのコースをたどれるのは珍しいことなのでぜひとも実現したいと考えていたそうだ。)をしようと考えていたのだがコロナウイルスの影響でカナダ政府がすべての人の入国を拒否したことでそれができなくなったことを奥さんからの衛星電話で知ることになる。周囲数千キロにわたって誰もいない世界で誰が感染者になって誰が感染源になるのかと愚痴をこぼしながら自分が世間と隔絶してしまっていて世界中がえらいことになっていることを露とも知らずに過ごしていたことの恐れ入り、最初に感染などというものは自分にはまったく無縁のものだと考えていたが後々に考えるとそれは大きな考え違いだったと認識した。そんな内容のコラムであった。

そんな著者が「冒険とは」ということについて、自身のエッセイ、コラム、対談などがまとめられている。

まず、冒険と探検というふたつの言葉の違いについていくつかの場所で言及している。冒険は個人的な事情にスポットを浴びせた言葉である。例えば途中で死んでしまっても冒険は冒険だが、探検はその内容なり結果を世間なりスポンサーなりに報告する義務が生じる。だから必ず生きて帰ってこなければならない。そういう違いがあるのだと著者は言う。著者の場合、自分の行動したことを最終的に本なり雑誌への連載なりで世間に対して知らしめたいという目的があるので、自身は探検家という肩書を名乗っているということだ。
この本では登山家についてたくさん言及されているのだが、登山家の中には明らかに山に登ることだけを目的とする人たちがいる。おそらく冒険家という範疇に属する人たちであるが、その人たちがどうして山に登るのかその理由を考察している。
著者の分析はこうだ。
『本当の生は死を取り込んだ時にしか感じられない』『冒険とは死を自らの生のなかに取り込むための作法である』『登山家が死をなかば覚悟して山に登ろうと決意するとき、そこには登山以外の人生の選択肢に対する完璧なる断念が含まれている。あなたにとって幸せとは何か。カネを稼ぐことか。なぜカネを稼ぐのか。いい車が欲しいからだ。なぜいい車が欲しいのか。いい女と付き合いたいからだ。なぜいい女と付き合いたいのか・・』こういった堂々巡りの末に出てくる答えは、『死なないため』にいきつく。そして登山家は死なないために死を自らの生の中に取り込む。ということは山に登るということは生きることそのものであるということに帰結する。
なかなか奥深い。禅の世界のようだ。冒険の定義のひとつとして著者は、「死を自己に取り込むための作法である。」と書いているのだが、要約するとこの言葉に集約されるということなのだろう。
死をリアルに意識できる場所が山である。それに加えて、著者は、登山(登山にかぎらず、冒険というものを行える自然世界全体がそうであるのだろうが。)とは、『社会で適用されている規範やルールとは無縁で、自分の裁量で命を管理しなければならない』ものであると書いている。
ひとは自由にあこがれる。登山家や冒険家が書いた文章に魅力を感じるのはそういった自由さに憧れを抱くからであろう。僕が船の釣りを楽しいと思うのは、それほど釣果が伴っていないことを考えると、多少航行上の制約やルールはあるものの、やはりそこにどこにでも、いつでも行けるという自由があるからなのかもしれない。
しかし、そこには、“自分の裁量で命を管理しなければならない”という不自由さというか、義務が生じる。しかし、昨今の観光化されてしまった登山、それは富士山への登山であったり、システム化されたエベレストへの登山を見ていると、その自由というものを人々は自ら放棄し始めているのではないかと著者は考えている。これは登山だけについて当てはまるのではなく、すべてのものについて当てはまるのではないか。著者はこんな言葉で、
『人々が思考を停止し、画一化の流れに身を任せ、誰かの扇動に盲目的にしたがったとき、その先には必ず何か恐ろしいことが待ちかまえている。』それを危惧している。
まさに今の日本人の政治に対する姿勢がそうなのではないか。政治的独裁もしくは一強政治をはぐくむ芽は、人々が面倒くさいことをすべて他人に丸投げすることから始まるという。そして声を上げないことがその芽を大きくしてゆく。まさにそれが、SNSで簡単に人の通ったルートを調べ、天気予報もスマホで調べて日帰りで岩登りや沢登りをして帰ってくるという行為と非常に似かよっている。そこには自分の思考というものは存在しないということだ。
自由であり続けるということは非常に難しい、しかし、それを放棄してはいけない。
本を読み進めると、著者の最大の関心事はこの、“自由”についてであるということが少しずつわかってくる。それをどう発信してゆくのか、それがタイトルの“表現術”に表れているのだと思った。
ジョージ富士川も言っているが、まさに『自由は不自由やで~。』と、きっと著者も言いたいのだ。


そして、「開高健ノンフィクション賞」を受賞したからというわけではないだろうが、師の著作や行動についてもいくつかの考えが掲載されている。
師のベトナムでの体験については「行動者ではなく、記録者であった」という書き方をしている。死というものを身近に感じたいという、「荒地」願望がベトナムに向かわせたと書いているけれども、その考えはちょっと違うのではないだろうか。
それよりも、人はどこまで残酷になれるのか、それは人の本性を見ることにもつながる。そんな人間の本質的なものを見極めたいという衝動があったのではないかと僕は考えている。傍観どころか、そこでは様々な人間の本質に迫って後の著作に反映されていると思う。
その後のビルケナウについての感想や晩年の著作などは、もう、人間のすべてをそぎ落とし、磨き倒してそれでも残った芯のなかの芯の部分をきっちり書ききっているのではないかと僕は思っている。生意気なようだが・・。
そして人生の後半の、釣りの旅の様々については、『「夏の闇」で自分自身を搾りに搾って蒸留して出したあの一滴を、適当に希釈させる方向でしか生きていけなかったのだろう。』そういう見解を示している。
それはある部分では的を射ているのかもしれないが、なんだか残酷な書き方だ。確かに師はその「夏の闇」以後小説が書けなくなり続編の「花終る闇」は未完で終わっているけれども、「釣り師は心に傷を負っているから釣りに行く・・」というように、自身の中に潜む闇にはきちんと対峙していたはずだ。それが「珠玉」に結実していると考えてもいいのではないだろうかと思うのだ。
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