今年の冬に30歳になる上の息子が、引っ越しをした。
彼は13歳の時に、否応なしに渡米させられた挙句、ちっとも助けてくれないネイティブの父と、助けようにも助けられないトホホな英語力の母の元、中学・高校と進み、バージニアにある工科大学に進学した。
大学一年生の時、同じ科の学生や教師が、精神に異常をきたしていた学生に撃ち殺された事件が起こった。
犯人だと推測された男子学生の名前が、息子のルームメイトと同姓同名だったことから、彼は相当パニクっていた。
そして、事件が起こったことで、アジア人の学生に対する偏見と嫌悪が広がりはしないかと、そのことを恐れていた。
だけど、事件が起こったその日の晩に、町と大学が共同で、
「この事件と犯人の人種には、何の繋がりもない。
我々は、アジア人に対する偏見や憎悪を一切持たないし、誰も持つべきではない」と、はっきり宣言してくれた。
アメリカの民意の成熟を感じた。
ともあれ、日本からいきなり移住してたった5年後の、しかも全く知り合いの居ない所への単身大学進学だったから、
最初の数年は相当にキツかったのだろう、ネットゲームにハマった挙句、眠れない、食べられないという症状が出て、危うくリタイアしそうになった時もあった。
でもなんとか持ち直し、半期分だけ遅れて卒業し、再びこちらに戻ってきた。
銃規制の緩い州だったし、乱射事件もあったことから、離れている間はあれこれいらぬ心配をした。
だから、無事にこちらに戻ってきてくれたことが、ただただ嬉しかった。
彼は常々、日本の会社で働いてみたいと思っていた。
そこで卒業前の夏休みを利用して、単身日本に出かけて行き、就活に勤しんだ。
しかし、日本での就活は困難を極め、お金が無いからと冬物のスーツで大汗をかきながら、泊めてもらったアパートの浴槽で洗濯し、またせっせと会社を訪問し続けた。
筆記試験や面接を何十と受け、そのたびに自信の無い日本語の敬語やビジネス用語の質問を、メールでガンガン送ってきた。
結局内定をもらったのは、人材派遣の小さな会社のみ。
でも、送られてきた入社案内の分厚い封筒の中にあった、就職後に住むことになる寮の部屋(二人部屋)の間取り図を見て、
「こ、こんなん無理や…」と絶句した後、すぐさま断りの連絡を入れた。
その部屋は、縦5メートル横2メートルの大きさで、そこにベッドが二つ、小さな机が二つ配置されていた。
ベッドとベッドの間は、カニ歩きでもしなければ歩けないほどに狭い。
そんな部屋に成人男性が2人…それを覚悟で入社する若者たちに、思いを馳せずにはいられなかった。
断ったのだから、今度はこちらで就活を始めなければならない。
大学で学んだのはコンピューターエンジニアリングだったので、それを活かせるようにと、夫が前に少しだけ働いた彼の友人のIT会社で、インターンをさせてもらうことになった。
インターンが始まってすぐに、使いを申し付けられて出かけた先の会社で、どういうわけか目に止まり、突然とんでもない課題を与えられた。
「君これ、1週間で学べるかね?」と言いながら、まだ一度も学んだことのない、多分大学だと2年ぐらいかけて習得するテクニックが書かれた分厚い本を、ひょいっと手渡されたのだ。
息子は負けん気が強いので、「もちろんできます」と答えてしまい、それからというもの、厚さが10センチ近くある専門書相手に、頭から湯気を出して必死に頑張ったのだが、
やはりそれは到底無理な話で、約束の1週間が近づいてきた時、「あかん、やっぱり無理!」と、さすがにへこたれていた。
でも、相手にそのことを伝える電話をしているのかと思ったら、
「すみません、1週間では無理でした。でも、あと1週間もらえたらできると思います」と粘っているではないか?!
やるなあ…と思いながらも、心身ともにかなり疲弊していたので、無理し過ぎじゃないかと心配もした。
約束の2週間後、約束を果たした彼は、めでたくその会社に入社。
そこでの働きを評価されたのか、そこから独立して新しく会社を設立しようという人に引き抜かれた。
その会社は順調に実績を上げ、今回の移転に伴い、息子も引っ越すことになった。
その引っ越し先は大学の近くなので、昔の友だちがいる。
だから、大学に入学した時と今とでは、状況も気分も全く違う。
おまけに、一人暮らしのアパートではなくて、大学時代の友人夫婦とお母さんが暮らす家で、間借りさせてもらうのだそうだ。
家族はみんな中国の人たちで、会話はだから英語になる。
彼が今一番ハマっている、クライミングの超〜イケてるジムが、会社の近くにあることも、かなり嬉しいことらしい。
家賃が今までの4分の1近くになるし、飲み歩く場所も無いし、物価も税金も安い州なので、とにかく必死でお金を貯めて、
できたら1年後に、もう一度大学に戻って勉強し、新しい知識を身につけたいというのが、今のところの目標。
そのためにも、学費ローンの未払い分70万円を、年末までに一気に返してしまいたいと言う。
一昨日の日曜に、多分引っ越しに対する読みが甘いだろうと思い、手伝いをしに夫と出かけた。
案の定、パッキングは始まっていたが、すべてを月曜日の夜までに終えられるとは、到底思えない状況だった。
夫は冷蔵庫や棚の、使いかけの調味料や食品を、わたしは食器のパッキングを、黙々と手際よくやったつもりだったけど、それでも4時間もかかってしまった。
引っ越しの大変さを、重々思い知らされてきたわたしたちとしては、台所周りの片付けだけで去るのはとても気が引けたけど、
息子は何度も、「これだけしてもらったら充分だ」と言うし、空と海が待っているので、家に戻らなければならない。
彼の大のお気に入りだったタイレストランで食事をして、大人の決断をした息子を祝った。
帰りの車の中で、わたしは言葉が出てこなかった。
12年前の夏に、大学の寮の芝生に立つ、18歳だったやせっぽちの彼を残し、家に戻る車中の、やるせない気持ちでいっぱいだった自分を思い出した。
でも今は違う。
彼は成長したし、強くなった。
いろんなことを学んだ。
そして立派な大人だ、おっさんだ。
そんな息子に、ああ、行く前におにぎりを握って食べさせてやりたかっただの、手前味噌の味噌汁を一杯飲ませてやりたかっただの、
多分それは、自分が母親としてしたかったことばかりで、本人にしてみれば、ありがた迷惑なんだろう。
それにしても、たった1時間弱で行き来できる所に住んでいたのに、なんでほとんど会いに行かなかったんだろう。
彼はまた、車で10時間近くもかかる所に引っ越してしまったではないか…。
などと、うだうだくよくよ考えては、考えても仕方が無いことを考えるなと、自分で自分を嗜めた。
昨日は一人、朝からずっと頑張ったらしいが、夕方になっても一向に終わりが見えてこないことに焦っていると、なんと友人が助けに来てくれたらしい。
その助けを借りて、なんとか夜中の3時ぐらいには、すべてのパッキングは終わったのだけど、
火曜日の出発当日、引っ越し会社が大きな荷物を全部運び出してくれた後の掃除が、思ってた以上に大変で、電車の時刻が近づいてくるのに終わらない。
どうしようと途方に暮れていたら、偶然、アパートメントの掃除をしに来たプロフェッショナルさんたちに出合わせ、20ドルを払って手伝ってもらったのだそうな。
さすがはプロ。お見事!
「こっからいつも応援してるから。
ほんで、いつでも帰りたくなったらここに帰っておいで。
熱烈歓迎するぞ!
くれぐれも体を大切に、行ってらっしゃい」
と書いたら、
「ありがとう、頑張ってくるわ」
と返事がきた。
寂しいような嬉しいような誇らしいような心配なような、いろんな思いがぐるぐるしてる。
彼は13歳の時に、否応なしに渡米させられた挙句、ちっとも助けてくれないネイティブの父と、助けようにも助けられないトホホな英語力の母の元、中学・高校と進み、バージニアにある工科大学に進学した。
大学一年生の時、同じ科の学生や教師が、精神に異常をきたしていた学生に撃ち殺された事件が起こった。
犯人だと推測された男子学生の名前が、息子のルームメイトと同姓同名だったことから、彼は相当パニクっていた。
そして、事件が起こったことで、アジア人の学生に対する偏見と嫌悪が広がりはしないかと、そのことを恐れていた。
だけど、事件が起こったその日の晩に、町と大学が共同で、
「この事件と犯人の人種には、何の繋がりもない。
我々は、アジア人に対する偏見や憎悪を一切持たないし、誰も持つべきではない」と、はっきり宣言してくれた。
アメリカの民意の成熟を感じた。
ともあれ、日本からいきなり移住してたった5年後の、しかも全く知り合いの居ない所への単身大学進学だったから、
最初の数年は相当にキツかったのだろう、ネットゲームにハマった挙句、眠れない、食べられないという症状が出て、危うくリタイアしそうになった時もあった。
でもなんとか持ち直し、半期分だけ遅れて卒業し、再びこちらに戻ってきた。
銃規制の緩い州だったし、乱射事件もあったことから、離れている間はあれこれいらぬ心配をした。
だから、無事にこちらに戻ってきてくれたことが、ただただ嬉しかった。
彼は常々、日本の会社で働いてみたいと思っていた。
そこで卒業前の夏休みを利用して、単身日本に出かけて行き、就活に勤しんだ。
しかし、日本での就活は困難を極め、お金が無いからと冬物のスーツで大汗をかきながら、泊めてもらったアパートの浴槽で洗濯し、またせっせと会社を訪問し続けた。
筆記試験や面接を何十と受け、そのたびに自信の無い日本語の敬語やビジネス用語の質問を、メールでガンガン送ってきた。
結局内定をもらったのは、人材派遣の小さな会社のみ。
でも、送られてきた入社案内の分厚い封筒の中にあった、就職後に住むことになる寮の部屋(二人部屋)の間取り図を見て、
「こ、こんなん無理や…」と絶句した後、すぐさま断りの連絡を入れた。
その部屋は、縦5メートル横2メートルの大きさで、そこにベッドが二つ、小さな机が二つ配置されていた。
ベッドとベッドの間は、カニ歩きでもしなければ歩けないほどに狭い。
そんな部屋に成人男性が2人…それを覚悟で入社する若者たちに、思いを馳せずにはいられなかった。
断ったのだから、今度はこちらで就活を始めなければならない。
大学で学んだのはコンピューターエンジニアリングだったので、それを活かせるようにと、夫が前に少しだけ働いた彼の友人のIT会社で、インターンをさせてもらうことになった。
インターンが始まってすぐに、使いを申し付けられて出かけた先の会社で、どういうわけか目に止まり、突然とんでもない課題を与えられた。
「君これ、1週間で学べるかね?」と言いながら、まだ一度も学んだことのない、多分大学だと2年ぐらいかけて習得するテクニックが書かれた分厚い本を、ひょいっと手渡されたのだ。
息子は負けん気が強いので、「もちろんできます」と答えてしまい、それからというもの、厚さが10センチ近くある専門書相手に、頭から湯気を出して必死に頑張ったのだが、
やはりそれは到底無理な話で、約束の1週間が近づいてきた時、「あかん、やっぱり無理!」と、さすがにへこたれていた。
でも、相手にそのことを伝える電話をしているのかと思ったら、
「すみません、1週間では無理でした。でも、あと1週間もらえたらできると思います」と粘っているではないか?!
やるなあ…と思いながらも、心身ともにかなり疲弊していたので、無理し過ぎじゃないかと心配もした。
約束の2週間後、約束を果たした彼は、めでたくその会社に入社。
そこでの働きを評価されたのか、そこから独立して新しく会社を設立しようという人に引き抜かれた。
その会社は順調に実績を上げ、今回の移転に伴い、息子も引っ越すことになった。
その引っ越し先は大学の近くなので、昔の友だちがいる。
だから、大学に入学した時と今とでは、状況も気分も全く違う。
おまけに、一人暮らしのアパートではなくて、大学時代の友人夫婦とお母さんが暮らす家で、間借りさせてもらうのだそうだ。
家族はみんな中国の人たちで、会話はだから英語になる。
彼が今一番ハマっている、クライミングの超〜イケてるジムが、会社の近くにあることも、かなり嬉しいことらしい。
家賃が今までの4分の1近くになるし、飲み歩く場所も無いし、物価も税金も安い州なので、とにかく必死でお金を貯めて、
できたら1年後に、もう一度大学に戻って勉強し、新しい知識を身につけたいというのが、今のところの目標。
そのためにも、学費ローンの未払い分70万円を、年末までに一気に返してしまいたいと言う。
一昨日の日曜に、多分引っ越しに対する読みが甘いだろうと思い、手伝いをしに夫と出かけた。
案の定、パッキングは始まっていたが、すべてを月曜日の夜までに終えられるとは、到底思えない状況だった。
夫は冷蔵庫や棚の、使いかけの調味料や食品を、わたしは食器のパッキングを、黙々と手際よくやったつもりだったけど、それでも4時間もかかってしまった。
引っ越しの大変さを、重々思い知らされてきたわたしたちとしては、台所周りの片付けだけで去るのはとても気が引けたけど、
息子は何度も、「これだけしてもらったら充分だ」と言うし、空と海が待っているので、家に戻らなければならない。
彼の大のお気に入りだったタイレストランで食事をして、大人の決断をした息子を祝った。
帰りの車の中で、わたしは言葉が出てこなかった。
12年前の夏に、大学の寮の芝生に立つ、18歳だったやせっぽちの彼を残し、家に戻る車中の、やるせない気持ちでいっぱいだった自分を思い出した。
でも今は違う。
彼は成長したし、強くなった。
いろんなことを学んだ。
そして立派な大人だ、おっさんだ。
そんな息子に、ああ、行く前におにぎりを握って食べさせてやりたかっただの、手前味噌の味噌汁を一杯飲ませてやりたかっただの、
多分それは、自分が母親としてしたかったことばかりで、本人にしてみれば、ありがた迷惑なんだろう。
それにしても、たった1時間弱で行き来できる所に住んでいたのに、なんでほとんど会いに行かなかったんだろう。
彼はまた、車で10時間近くもかかる所に引っ越してしまったではないか…。
などと、うだうだくよくよ考えては、考えても仕方が無いことを考えるなと、自分で自分を嗜めた。
昨日は一人、朝からずっと頑張ったらしいが、夕方になっても一向に終わりが見えてこないことに焦っていると、なんと友人が助けに来てくれたらしい。
その助けを借りて、なんとか夜中の3時ぐらいには、すべてのパッキングは終わったのだけど、
火曜日の出発当日、引っ越し会社が大きな荷物を全部運び出してくれた後の掃除が、思ってた以上に大変で、電車の時刻が近づいてくるのに終わらない。
どうしようと途方に暮れていたら、偶然、アパートメントの掃除をしに来たプロフェッショナルさんたちに出合わせ、20ドルを払って手伝ってもらったのだそうな。
さすがはプロ。お見事!
「こっからいつも応援してるから。
ほんで、いつでも帰りたくなったらここに帰っておいで。
熱烈歓迎するぞ!
くれぐれも体を大切に、行ってらっしゃい」
と書いたら、
「ありがとう、頑張ってくるわ」
と返事がきた。
寂しいような嬉しいような誇らしいような心配なような、いろんな思いがぐるぐるしてる。