オマール君
君はマレーからはるばる日本の広島に勉強しに来てくれた。
それなのに君を迎えたのは原爆だった。
嗚呼、実に実に残念である。
君は君のことを忘れない日本人あることを記憶していただきたい。
武者小路実篤
今朝、桃子さんがFacebookに掲載した記事を読んで深く胸を打たれた。
毎年この時期になると、どこからともなく辿り着かれた方々が、もう今から10年以上も前に書いた記事「あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?」を読んでくださっている。
今日ここで紹介させていただくのは、今まで全く知らなかった人たちの死である。
桃子さんのコメント:
今日の広島の原爆記念日、マレーシア人で当時広島大学の留学生だったサイード オマールさんの葬られた一乗寺 臨済宗の圓光寺にお墓参りに行った。
オマールさんは18歳の優秀な留学生で広島でこの原爆という悲劇に遭遇した。
投下直後は自分の体の痛みも厭わず、被爆者の救出に奔走したと言う。
京都にたどり着いた時には瀕死状態で京大でもどう治療してよいやら、まだ原爆の実態すらわからない中、彼は若き命を終えたのだという。
当初、京都の公の墓所は南禅寺だそうでそこに葬られたが、その後、山端の平八茶屋の当主や家族、地元の方々の協力で今の圓光寺にイスラーム式の墓を建造し手厚く埋葬されたそうだ。
武者小路実篤のオマールさんに寄せた一文の石碑もあった。
同じく桃子さんが紹介してくれた記事、『被爆南方特別留学生・サイド・オマールさんを訪ねる旅』を読んでさらに当時の詳しい事情を知り、原子力爆弾の非人道さに怒りが込み上げてきた。
絶対に、2度と繰り返されてはいけないことの代表格、原爆。
核兵器撲滅への道はどんなに遠くても、必ず実現させなければならない。人として、大人として。
『被爆南方特別留学生・サイド・オマールさんを訪ねる旅』
引用(順不同):
・オマール青年が南方特別留学生として日本に来たきっかけ
戦争中に日本軍がジャワを占領したとか、フィリピンのマニラを占領した時に、その土地に、それぞれの土地でそこの王族とか、大臣とか大統領とかのそこの偉い人の子どもさんを、日本に連れてきたのです。
そして「日本で勉強させて偉い人にしてやる」、そして大東亜共栄圏を守ろうということで、連れてきたのです。
自分の子弟が日本にいることで、日本にはむかえない。
日本軍の言いなりになるというふうなことが、作戦的に考えられたわけです。
だから留学生としては、非常に、お気の毒だったわけです。
・どのような旅だったか
戦争中オマールさんたちは、日本海軍の駆逐艦に乗って何日もかかって、魚雷をくぐりぬけながら来られた。
・オマール青年の被爆とその後
原爆が投下された時、オマール君は寮の中におりました。
そしてこの辺りの川の中は、死人やけが人でいっぱいで、埋め尽くされているような状態でした。
オマールさんは寮生の被爆後の状況を大学へ連絡しに行き、大学の指示を受けて寮に帰り、寮の消火活動をはじめ、日本人の救助活動をいろいろしたわけです。
特に感心したのは、老人や女性、小さな子どもたちや弱い立場の人には、とてもやさしかったことです。
そんなオマールさんを見て、留学生はみんな親切でした。
被爆後の広大での野宿では、行方不明のわたしたち肉親捜しを一緒にしてくれたり、疲れてかえったら、「千重子どうだった。明日またさがそう」と声掛けしてくれました。
5人の留学生は率先して係を作り、私や母たちの食 べ物もどこかから(配給や炊き出し、学校の畑等)持ってきてくれました。本当に感謝でした。
オマールさんは胸にヤケドをしながら、そのような様子は全く見られなくてドラムかんを探してきて、お風呂をわかして入ったりしている姿が忘れられません。
オマールさんは胸にヤケドをしながら、そのような様子は全く見られなくてドラムかんを探してきて、お風呂をわかして入ったりしている姿が忘れられません。
オマールさんは自分の考えをはっきり持った人で、お別れの時「日本はこの様になったけれど、きっと立ち直るでしょう。(私はそれを信じることはできませんでしたが)わたしもマレーシアに帰って国のために働きます。きっとまた広島にみんなに会いに来ます」と約束されました。
サイド・オマールさんのお墓/京都市左京区 圓光寺