わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

茶の話32(江戸末期の茶人)

2011-12-09 22:06:40 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
幕末期間の代表的茶人は、彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)と、後の財閥に発展する豪商達です。

1) 井伊直弼:(1815~1860年)「桜田門外の変」で殺害されます。

  ① 「埋木舎(うもれぎのや)」に住み着いていた、直弼は不運の中でも、自ら茶室を作り、「茶の湯」を

   楽しんでいた様子です。更に、屋敷内に楽焼の窯を設け、作品を作っています。

   後年、藩窯「湖東(ことう)焼」はこの楽焼の窯が起源となって一時栄え、茶器が作られ、実際に

   使われていました。

   1846年、藩主の死亡により、直弼が彦根藩十五万石の井伊家の藩主に成ります。

  ② 直弼は茶会を四十四会行ったとされています。

   江戸屋敷に、三畳の茶室「一露軒」を造り、各地の大名や家臣と茶会をしています。

   直弼37~46歳の十年間は、藩主や大老として、国政を担っていますが、この間亭主と成った

   茶会の記録を収めた「彦根水屋帳」と「東都水屋帳」があります。

  ・ この中で特筆すべきは、茶会に女性(直弼の次女や侍女達)が参加している事と、奥女中や

    侍女達が亭主になった茶会も有った事が、記せられている事です。

    この頃には、女性の亭主も珍しい事では無かった様です。

  生涯で自ら亭主に成った茶会が44回、客として参加した茶会は150回程あった様です。

  ③ 「茶湯一会集」は直弼が書き残した書物ですが、「一期一会」「独座観念(どくざかんねん)」

    などの考え方が記されています。

    注: 独座観念とは、亭主が茶会を終えた後も、炉の前で一人茶会を思い返す事の意味です。

    直弼の「茶の湯」は、主客共に真の誠意を持って交わり、貴賎貧富の差の無い茶を目指し、

    この志が茶のみでなく生活全般に渡る事を、願っている様です。

2) 三井家と鴻池家(江戸期には大名を上回る財を成し、茶の湯を楽しむ豪商も多かったです。)

  ① 三井家は、初代高利(たかとし:1622~1694年)が伊勢松坂から江戸に出て、江戸駿河町に

    呉服商の「三井越後屋」を開き、現金取引で「現金掛け値なし」と言う新しい商売方法で

    繁盛します。その後、京都で両替商を営み、財を築いていきます。

   ) 初代高利の頃から、「茶の湯」を嗜み(たしなみ)愛用の楽茶碗が残っています。

   ) 本格的に茶道具類を蒐集したのは、二代目高平(1653~1737年)以降で、瀬戸茶入「二見」

     (中興名物)や「与次郎霰釜(あられかま)」、「北野肩衝」、黒楽茶碗「雨雲(あまぐも)」

      (光悦作)などの名器を購入し、茶会に使用しています。

  ② 鴻池家

    大坂の鴻池家は、江戸時代初期に清酒を醸造し、江戸に運び販売して財をなします。

    更に海運業を営みながら、大名貸しを行います。1670年に幕府の御用両替商となり、百藩以上の

    大名に金銀を貸付、成長してゆきます。

    ) 鴻池家の分家に当たる、草間直方(1753~1831年)は1827年に「茶器名物図彙(ずい)」

      95巻を記述します。図示した茶道具に文献を添えて解説しています。

      更に、茶家の系図、茶室、茶会などの記録が記されています。

    ) この様な研究や著述が、豪商と言えども町民である人々によって書き表されている事が、

      「茶の湯」が一般化されつつ有る証拠とも言えます。

次回は明治以降の「茶の湯」について、お話します。
      
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