江戸も元禄頃に成ると、世の中が安定して来ます。五代将軍綱吉の頃で、日光東照宮の修理や上野寛永寺の
根本中堂の造営などの土木工事が行われ、世の中は好景気に湧きます。
1) 冬木屋が豪商に成る切っ掛けは、明暦の大火でした。
この好景気の波に乗り、紀伊国屋文左衛門や、奈良屋茂左衛門などの豪商が現れます。
その中に、材木商の冬木屋があります。明暦の大火の際、機敏に行動し、飛騨の山林を買い漁り、
大火後の建築ブームに乗って、莫大の利益をあげます。冬木屋二代政親の時代の事です。
注: 明暦の大火(1657年3月2~4日)とは、当時の江戸の大半を焼失する大火災でした。
振袖火事とも呼ばれています。死者は3万~10万人とも言われています。
この時、江戸城本丸も焼失してしまいました。
その後も蓄財を重ね、三代目弥平次の頃、最盛期を向かえ、深川に土地を買って移転してます。
2) 天下の名品の茶道具を買い集める。
紀伊国屋や奈良屋の様に、吉原などで豪遊をせずに、茶の湯の嗜み(たしなみ)を身に付け、
代々名品を次々に買い求めます。茶は表千家五代の随流斎(ずいりゅうさい)に師事しています。
① 「油屋肩衝」を豪商河村瑞賢(ずいけん)より、「千八百両」で買取ます。
② 利休作の「園城寺(おんじょうじ)花入」を、京の茶人家原自仙(いえはらじせん)より、
「千両」で買い求めます。
③ 特筆すべき事は、冬木屋の分家の小平次の蔵で、利休の「辞世」の遺偈(ゆいげ)と和歌を
発見した事です。この辞世は、利休が切腹前に、したためた物で、娘婿の小庵に与えられますが、
その子の宗旦の時、堺の商人万代屋宗完(もずくやそうかん)に、貸し出され以後行方不明に
成っていた物です。発見者は川上不白(ふはく、後で取り上げます。)でした。
その他にも、尾形光琳(こうりん)に金銭的援助を行うと伴に、各種文化面に多大の援助を行います。
現在東京国立博物館に所蔵している、秋草の「小袖」は、光琳が恩義に報いる為、冬木家に
送った物です。
3) 冬木屋の没落
四代目郡高(くにたか)の時、幕府に法外の高値で販売したとして、「三十万両」の返還を
要求されます。 その為、次第に家運は傾いて行きます。
六代、七代目と成ると、暮らしに困り次々に茶道具を、手放して行きます。
以下次回に続きます。
参考文献: 茶の湯事件簿 火坂雅志著 (株)淡交社
根本中堂の造営などの土木工事が行われ、世の中は好景気に湧きます。
1) 冬木屋が豪商に成る切っ掛けは、明暦の大火でした。
この好景気の波に乗り、紀伊国屋文左衛門や、奈良屋茂左衛門などの豪商が現れます。
その中に、材木商の冬木屋があります。明暦の大火の際、機敏に行動し、飛騨の山林を買い漁り、
大火後の建築ブームに乗って、莫大の利益をあげます。冬木屋二代政親の時代の事です。
注: 明暦の大火(1657年3月2~4日)とは、当時の江戸の大半を焼失する大火災でした。
振袖火事とも呼ばれています。死者は3万~10万人とも言われています。
この時、江戸城本丸も焼失してしまいました。
その後も蓄財を重ね、三代目弥平次の頃、最盛期を向かえ、深川に土地を買って移転してます。
2) 天下の名品の茶道具を買い集める。
紀伊国屋や奈良屋の様に、吉原などで豪遊をせずに、茶の湯の嗜み(たしなみ)を身に付け、
代々名品を次々に買い求めます。茶は表千家五代の随流斎(ずいりゅうさい)に師事しています。
① 「油屋肩衝」を豪商河村瑞賢(ずいけん)より、「千八百両」で買取ます。
② 利休作の「園城寺(おんじょうじ)花入」を、京の茶人家原自仙(いえはらじせん)より、
「千両」で買い求めます。
③ 特筆すべき事は、冬木屋の分家の小平次の蔵で、利休の「辞世」の遺偈(ゆいげ)と和歌を
発見した事です。この辞世は、利休が切腹前に、したためた物で、娘婿の小庵に与えられますが、
その子の宗旦の時、堺の商人万代屋宗完(もずくやそうかん)に、貸し出され以後行方不明に
成っていた物です。発見者は川上不白(ふはく、後で取り上げます。)でした。
その他にも、尾形光琳(こうりん)に金銭的援助を行うと伴に、各種文化面に多大の援助を行います。
現在東京国立博物館に所蔵している、秋草の「小袖」は、光琳が恩義に報いる為、冬木家に
送った物です。
3) 冬木屋の没落
四代目郡高(くにたか)の時、幕府に法外の高値で販売したとして、「三十万両」の返還を
要求されます。 その為、次第に家運は傾いて行きます。
六代、七代目と成ると、暮らしに困り次々に茶道具を、手放して行きます。
以下次回に続きます。
参考文献: 茶の湯事件簿 火坂雅志著 (株)淡交社
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