40歳から陶芸を始め人間国宝(国の無形文化財)に成った備前焼の陶芸作家に、藤原啓氏がいます。
尚、備前焼では、山本陶秀に次いで二人目の無形文化財認定者と成っています。
1) 藤原啓(ふじわら けい): 1899年(明治32年)~ 1983年(昭和58年) 本名 啓二
① 経歴
) 岡山県和気郡伊里村(現、備前市)で農業藤原伊三郎の三男として生まれます。
) 1909年 10歳の時 「名月や掉さしかねて流す舟」の俳句を、実業之日本社の「日本少年」に
応募して一等となり、16歳で博文館の「文章世界」に短文を応募し一等と成ります。
) 19歳から、地元伊部の小学校の代用教員となりますが、翌年、教員を辞し神戸の友人を
訪ねます。ここで社会問題に興味を持ちます。 博文館「文章世界」の編集長の
加納作次郎氏に東京での就職を依頼し、「すぐこい」との返事で上京し、博文館の仕事を
続けます。その後、文学者の正宗白鳥や坪内逍遥などと知り合い、文学を志しますが
道が開けず、病を得て、1937年 失意のうちに郷里の備前に帰ります。
) 1938年 39歳 正宗白鳥の弟で万葉学者の正宗敦夫から、備前焼でも焼いてみたらと薦められ
敦夫の世話で、伊部の陶工三村梅景を知り、築窯、原土の入手、ロクロ成形などの指導を
受け、本格的な陶芸生活に入ります。翌年には初窯を焚いています。
) 1941年 金重陶陽と親しくなり、備前焼の焼成法の指導を受けます。
翌年には、第一回個展を岡山市の禁酒会館で開きます。
1949年 岡山県文化連盟賞を受賞。1953年 東京日本橋の壼中居で個展を。
1954年 北大路魯山人の紹介で、東京日本橋の高島屋で個展を開き、
1955年 東京日本橋の三越で個展を開催するなど、次々に作品を発表します。
) 1956年 第三回日本伝統工芸展に「備前平水指」を出品し、日本工芸会正会員に推されます。
以後、毎年日本伝統工芸展に出品し続けます。 第四回では「備前焼壼」、第五回は
「備前平鉢」、1975年第二十二回まで出品を続けます。
) 1958年 日本工芸会理事に推され、以後60年まで理事を務めます。
日本伝統工芸展の鑑査員を勤め、1975年 迎賓館に備前水指「備前花入」を納め1969年には、
新宮殿に「擂座壼」一対を納めます。
その他、プラハ国際陶芸展での金賞を受賞やヨーロッパ、中近東諸国、中南米のマヤや
インカ文明、その他、フランス、スイス、ベルギー三カ国を巡回など、海外にも多く出掛けて
います。
) 1970年 71歳 「備前焼」の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。
1977年 自宅の敷地内に財団法人「藤原啓記念館」完成。作品を寄贈し、一般に展示公開します。
1982年 「藤原啓 記念賞」を設立し、1984年から優れた製作活動を示した陶芸家一人に隔年で
贈ることになります。第一回受賞者は、走泥社同人の鈴木治氏です。
② 藤原啓の陶芸
) 40歳と言う遅い門出でしたが、金重陶陽や北大路魯山人らの指導を受け、技術向上に邁進し
します。特に金重陶陽が先駆となった、古備前復興の継承に尽力し、桃山古備前の技法を
基礎にして、「窯変」を生かした近代的な造形が特徴です。
師である金重とは対照的に素朴で大らかな作品が、備前焼の新たな展開を示し、後進へ大きな
影響を与えました。
) 手回し轆轤(ろくろ)による筒型の花入や、徳利などの酒器、壷や鉢が多いです。
形はシップルで「奇をてらった」物ではありません。
「私は、あまり手の込んだものより、あっさりした、いわばロクロで挽き上げただけの
作品が好きである。水指でも花入でも耳のくっついていない、『単純明快』な作品が
好きである。あまり考え過ぎたり、よく仕事ができているといって、その作品のフォルムより
手の込み具合をほめる様な作品は好きでない。」と述べています。
次回(藤原啓2)に続きます。
参考文献: 日本のやきもの 備前 文=藤原啓、雄氏、(株)淡交社(1985年 初版)
尚、備前焼では、山本陶秀に次いで二人目の無形文化財認定者と成っています。
1) 藤原啓(ふじわら けい): 1899年(明治32年)~ 1983年(昭和58年) 本名 啓二
① 経歴
) 岡山県和気郡伊里村(現、備前市)で農業藤原伊三郎の三男として生まれます。
) 1909年 10歳の時 「名月や掉さしかねて流す舟」の俳句を、実業之日本社の「日本少年」に
応募して一等となり、16歳で博文館の「文章世界」に短文を応募し一等と成ります。
) 19歳から、地元伊部の小学校の代用教員となりますが、翌年、教員を辞し神戸の友人を
訪ねます。ここで社会問題に興味を持ちます。 博文館「文章世界」の編集長の
加納作次郎氏に東京での就職を依頼し、「すぐこい」との返事で上京し、博文館の仕事を
続けます。その後、文学者の正宗白鳥や坪内逍遥などと知り合い、文学を志しますが
道が開けず、病を得て、1937年 失意のうちに郷里の備前に帰ります。
) 1938年 39歳 正宗白鳥の弟で万葉学者の正宗敦夫から、備前焼でも焼いてみたらと薦められ
敦夫の世話で、伊部の陶工三村梅景を知り、築窯、原土の入手、ロクロ成形などの指導を
受け、本格的な陶芸生活に入ります。翌年には初窯を焚いています。
) 1941年 金重陶陽と親しくなり、備前焼の焼成法の指導を受けます。
翌年には、第一回個展を岡山市の禁酒会館で開きます。
1949年 岡山県文化連盟賞を受賞。1953年 東京日本橋の壼中居で個展を。
1954年 北大路魯山人の紹介で、東京日本橋の高島屋で個展を開き、
1955年 東京日本橋の三越で個展を開催するなど、次々に作品を発表します。
) 1956年 第三回日本伝統工芸展に「備前平水指」を出品し、日本工芸会正会員に推されます。
以後、毎年日本伝統工芸展に出品し続けます。 第四回では「備前焼壼」、第五回は
「備前平鉢」、1975年第二十二回まで出品を続けます。
) 1958年 日本工芸会理事に推され、以後60年まで理事を務めます。
日本伝統工芸展の鑑査員を勤め、1975年 迎賓館に備前水指「備前花入」を納め1969年には、
新宮殿に「擂座壼」一対を納めます。
その他、プラハ国際陶芸展での金賞を受賞やヨーロッパ、中近東諸国、中南米のマヤや
インカ文明、その他、フランス、スイス、ベルギー三カ国を巡回など、海外にも多く出掛けて
います。
) 1970年 71歳 「備前焼」の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。
1977年 自宅の敷地内に財団法人「藤原啓記念館」完成。作品を寄贈し、一般に展示公開します。
1982年 「藤原啓 記念賞」を設立し、1984年から優れた製作活動を示した陶芸家一人に隔年で
贈ることになります。第一回受賞者は、走泥社同人の鈴木治氏です。
② 藤原啓の陶芸
) 40歳と言う遅い門出でしたが、金重陶陽や北大路魯山人らの指導を受け、技術向上に邁進し
します。特に金重陶陽が先駆となった、古備前復興の継承に尽力し、桃山古備前の技法を
基礎にして、「窯変」を生かした近代的な造形が特徴です。
師である金重とは対照的に素朴で大らかな作品が、備前焼の新たな展開を示し、後進へ大きな
影響を与えました。
) 手回し轆轤(ろくろ)による筒型の花入や、徳利などの酒器、壷や鉢が多いです。
形はシップルで「奇をてらった」物ではありません。
「私は、あまり手の込んだものより、あっさりした、いわばロクロで挽き上げただけの
作品が好きである。水指でも花入でも耳のくっついていない、『単純明快』な作品が
好きである。あまり考え過ぎたり、よく仕事ができているといって、その作品のフォルムより
手の込み具合をほめる様な作品は好きでない。」と述べています。
次回(藤原啓2)に続きます。
参考文献: 日本のやきもの 備前 文=藤原啓、雄氏、(株)淡交社(1985年 初版)
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