池田満寿夫(いけだ ますお): 1934年(昭和9年)2月23日 ~1997年(平成9年)3月8日
画家、版画家、 挿絵画家、彫刻家、陶芸家、小説家、映画監督など多彩な分野で活躍した芸術家で
作家でもあります。尚、「エーゲ海に捧ぐ」で、第77回芥川賞(昭和52年/1977年上期)を受賞され
ています。 43歳4ヵ月での受賞です。
特に、二十代中頃から、版画家として世界の公募展で多くの大賞を獲得し、活躍した世界的にも
著名な人物です。
1) 陶芸を始める。
① 陶芸は、米国に滞在中の38歳から始めます。平面的な絵画や版画等の他、立地的な彫刻を
手掛けていた池田氏にとって、立体を取り扱う陶芸を行う事はある意味、必然性が有ったとも
思われます。 陶芸に興味を覚えたのは、周囲に陶芸を行っている外国人もいて、その影響も
あり、「好奇心があった」とも述べています。
但し、当時小さな電気窯を買って、アトリエに設置したとの事ですが、一度も使う事がなかった
様です。 興味はあったが、陶芸に時間を割く事が少なかった様です。
② 陶芸は一時中断しますが、米国より帰国後の1983年49歳の時、陶芸を再開します。
切っ掛けは同年、誘われて静岡県南伊豆町の、日本クラフトの岩殿寺窯で轆轤を回した事で、
一気に陶芸の虜になります。それ以来本格的に作品作りに励んでいます。
岩殿寺窯では、約2年間の作陶生活を送っています。池田氏は陶芸について「なんといっても
インスピレーションと成り行きだけで、どんどん形を作っていけるシステムが私を興奮させた」
とその魅力を語っています。(1992年8月24日付読売新聞夕刊)
③ 岩殿寺窯での成果は、日本橋高島屋で発表しています。(1984年)
2) 最初は若いスタッフ達に、轆轤で壷や皿を形作らせ、それを彼なりに変形させて作品を作って
いました。陶芸以外に多くのジャンルで作品を手掛けていた為、十分時間が取れなかったのも、
一つの原因ですし、誰かに正式に陶芸を学ぶ機会や時間が、なかったからとも思われます。
窯はガス窯(2立米)と電気窯(0.3立米)を使用して焼成しています。
これらの窯は、釉の色や形(造形)を表現するのに向いた窯と言えます。
3) 作風が大きく変わる。
① 1993年、山梨県増穂町(現、富士川町)に野焼き風の焼成が可能な薪窯(まきがま)の
「満寿夫八方窯」を造ってから、本格的に自分で制作する様になります。この窯では、「縄文焼」
「古代幻視」「般若心経」などのシリーズ物を含め、約2千点程の作品を制作しています。
制作方法は主に陶板のタタラによる、オブジェの作品です。その他、塊(かたまり)作りによる
抹茶々碗、小さな地蔵様、更には、叩き技法による花瓶などを制作しています。尚、「八方窯」
の名前は、焚き口が八つある事から来ています。これは、裏表の無い焼き物を作りたいとの願い
があります。内壁の高さは180cm以上ある大きな窯ですので、高さ1m程度の作品は楽々
焼く事ができます。薪(まき)窯は土の色(味)を如実に反映し、炎の行方で千差万別の表情を
作るのが魅力に成っています。
② 自分に適した陶土を求め、日本の土を試し適した陶土を見出す。
大物の作品には、瀬戸で作られていた土を見出します。信楽土にシャモット(焼粉)を混ぜ、
切れや収縮を抑えた耐火度が強い土です。尚、抹茶々碗や小地蔵、花瓶などは唐津の粘土を
使っています。
③ 大物の制作方法は、ほとんど手捻りで、板状の粘土を使ったタタラ作り技法です。
以下次回に続きます。
画家、版画家、 挿絵画家、彫刻家、陶芸家、小説家、映画監督など多彩な分野で活躍した芸術家で
作家でもあります。尚、「エーゲ海に捧ぐ」で、第77回芥川賞(昭和52年/1977年上期)を受賞され
ています。 43歳4ヵ月での受賞です。
特に、二十代中頃から、版画家として世界の公募展で多くの大賞を獲得し、活躍した世界的にも
著名な人物です。
1) 陶芸を始める。
① 陶芸は、米国に滞在中の38歳から始めます。平面的な絵画や版画等の他、立地的な彫刻を
手掛けていた池田氏にとって、立体を取り扱う陶芸を行う事はある意味、必然性が有ったとも
思われます。 陶芸に興味を覚えたのは、周囲に陶芸を行っている外国人もいて、その影響も
あり、「好奇心があった」とも述べています。
但し、当時小さな電気窯を買って、アトリエに設置したとの事ですが、一度も使う事がなかった
様です。 興味はあったが、陶芸に時間を割く事が少なかった様です。
② 陶芸は一時中断しますが、米国より帰国後の1983年49歳の時、陶芸を再開します。
切っ掛けは同年、誘われて静岡県南伊豆町の、日本クラフトの岩殿寺窯で轆轤を回した事で、
一気に陶芸の虜になります。それ以来本格的に作品作りに励んでいます。
岩殿寺窯では、約2年間の作陶生活を送っています。池田氏は陶芸について「なんといっても
インスピレーションと成り行きだけで、どんどん形を作っていけるシステムが私を興奮させた」
とその魅力を語っています。(1992年8月24日付読売新聞夕刊)
③ 岩殿寺窯での成果は、日本橋高島屋で発表しています。(1984年)
2) 最初は若いスタッフ達に、轆轤で壷や皿を形作らせ、それを彼なりに変形させて作品を作って
いました。陶芸以外に多くのジャンルで作品を手掛けていた為、十分時間が取れなかったのも、
一つの原因ですし、誰かに正式に陶芸を学ぶ機会や時間が、なかったからとも思われます。
窯はガス窯(2立米)と電気窯(0.3立米)を使用して焼成しています。
これらの窯は、釉の色や形(造形)を表現するのに向いた窯と言えます。
3) 作風が大きく変わる。
① 1993年、山梨県増穂町(現、富士川町)に野焼き風の焼成が可能な薪窯(まきがま)の
「満寿夫八方窯」を造ってから、本格的に自分で制作する様になります。この窯では、「縄文焼」
「古代幻視」「般若心経」などのシリーズ物を含め、約2千点程の作品を制作しています。
制作方法は主に陶板のタタラによる、オブジェの作品です。その他、塊(かたまり)作りによる
抹茶々碗、小さな地蔵様、更には、叩き技法による花瓶などを制作しています。尚、「八方窯」
の名前は、焚き口が八つある事から来ています。これは、裏表の無い焼き物を作りたいとの願い
があります。内壁の高さは180cm以上ある大きな窯ですので、高さ1m程度の作品は楽々
焼く事ができます。薪(まき)窯は土の色(味)を如実に反映し、炎の行方で千差万別の表情を
作るのが魅力に成っています。
② 自分に適した陶土を求め、日本の土を試し適した陶土を見出す。
大物の作品には、瀬戸で作られていた土を見出します。信楽土にシャモット(焼粉)を混ぜ、
切れや収縮を抑えた耐火度が強い土です。尚、抹茶々碗や小地蔵、花瓶などは唐津の粘土を
使っています。
③ 大物の制作方法は、ほとんど手捻りで、板状の粘土を使ったタタラ作り技法です。
以下次回に続きます。
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