愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(61) 松平記

2024年05月06日 10時40分42秒 | 松平記

松平記p61

翻刻
成にけり。乙部ハ主殿助同心に被成ける也
一 松平三蔵(三左衛門弟)、大草の城を持、今度一揆に一味して、
敵に成。彼家来太田善太夫己下皆敵に成候間、岡崎衆に攻
落され、三河に安堵しがたくて西国へ浪人有、後にハ加藤
主計頭所に在て、加藤左助と改名し、天草の合戦に討死し
けると聞へし。是ハ内藤弥次右衛門が妹婿にてありし也。
一 又土呂の寺内に籠る人々大橋伝十郎、石川半蔵、佐橋甚兵
衛、同甚五郎、大見藤六、石川善五左衛門、同源左衛門、佐橋乱
之助、大橋左馬助、江原孫三郎、本多甚七、石川十郎左衛門、同
新九郎、同新七、同太郎八郎、同右衛門八、同又十郎、佐野与八

現代語
(成られた。)乙部は松平主殿助伊忠の家臣になられた。
一 松平三左衛門の弟三蔵は、大草に城を持ち、一揆に味方して、敵となった。かの家臣太田善太夫以下みな敵になったので、家康の岡崎衆に攻め落とされ、三河には住めなくなり、西国に浪人となって逃げた。後には加藤主計頭清正につき、加藤佐助と改名して、天草の合戦で討死をしたらしい。この武将は、内藤弥次右衛門の妹婿であった。
一 また土呂の寺内に籠っている人々は、大橋伝十郎、石川半蔵、佐橋甚兵衛、佐橋甚五郎、大見藤六、石川善五左衛門、石川源左衛門、佐橋乱之助、大橋佐馬助、江原孫三郎、本多甚七、石川十郎左衛門、石川新九郎、石川新七、石川太郎八郎、石川右衛門八、石川又十郎、佐野与八

コメント
松平三左衛門とは、これまで何度も登場していた松平三左衛門忠倫と思われます。その弟は松平信次と思われます。この松平信次について諸説あり、家康側について一揆方と戦ったという説もあります。

土呂に籠った武士たちについて、以前に調べた結果がありましたので、そちらを参照してください。
「愛知の史跡めぐり」から
本宗寺にたてこもる一揆側の武将
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上ノ郷城見学会

2024年04月21日 08時40分43秒 | 蒲郡市
お久しぶりです。
4月20日(土)上ノ郷城の見学会を実施しました。
総勢9名で和気あいあいと巡りました。

お城は高台にあり、そこから三河湾が見え三河湾に浮かぶ島々や遠くに渥美半島を望むことができました。
お城の見学は短くて済みましたので、近くの公民館に行きました。西部公民館と言い、上ノ郷城の模型を見せて頂いたり、DVD上映もしていただけました。

本丸から三河湾を望む
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霧の犬山城

2024年02月26日 05時36分18秒 | 犬山市
2月20日、愛知県地方は濃霧に覆われました。
そんな中、一枚の写真が友人から送られてきました。
犬山城です。
まさに天空の城です。
ちょうどテレビで霧の中に浮かぶ犬山城が紹介されたばかりで、
「まさか、放送の翌月に本当におきようとは思いませんでした。」
とのことでした。
コメント (2)
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上ノ郷城見学会の案内

2024年02月17日 06時05分09秒 | 愛教労 城の会
松平記はちょっと滞っていますが、山城めぐりは再開です。
3月23日(土)1時集合
上ノ郷城、集合場所は、近くの赤日子神社駐車場です
関心のある方は、お電話ください。
チラシのメールでも結構です。
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松平記(60) 松平記

2024年01月31日 16時28分52秒 | 松平記

松平記p60

翻刻 
(家)康衆を引入んと相図をしけるが、不叶して、外のくるハを
焼て早々にげ出ける間、頓而家康御勘気をゆるし給ふ。
一 額田郡野羽郷の古城に夏目次郎左衛門屋敷を城に構へ
大津半左衛門、乙部八兵衛籠りける間、深溝の松平主殿押
寄日々のせり合の戦有、然処乙部八兵衛、主殿助方へ返忠
致し、引入れける間、大津ハ不叶、針崎へ引退、夏目ハ引事も難
叶、土蔵の中へ入て隠れ居たりし処、主殿助衆堅守護して
不出、已に責殺んとしけるに、乙部色々詫言申、今度の忠に
申替て命を助け給へとなげく間、此段家康へ申上らるる
処に、家康大に御感有命を助させ給ひ、後には三郎殿衆に
(成にけり)

現代語
(戸田三郎右衛門は)家康の兵を寺の中に引き入れようと合図をしたが、うまくいかなかった。そこで外の曲輪を焼き、逃げて行った。やがて家康は勘気を許された。
一 額田郡野羽郷の古城に夏目次郎左衛門が屋敷を城に構え、そこに大津半左衛門、乙部八兵衛が籠っていた。深溝の松平主殿伊忠と日々せり合っていた。しかしながら乙部八兵衛が松平主殿助方に寝返りをし、兵を城に引入れた。大津半左衛門はたまらず、針崎勝鬘寺へ引き退いた。夏目次郎左衛門は引くこともできず、土蔵に入って隠れていた。松平主殿助は固くとり囲み、出られないようにした。すぐに責め殺してしまおうという時、寝返った乙部八兵衛が色々と命乞いをし、今度の寝返りに免じて夏目の命を助けてほしいと訴えた。主殿助はこのことを家康に報告したところ、家康は大いに感じるところがあり、命を助けられた。後に松平三郎信康の家臣になった。

コメント
戸田三郎右衛門は、家康の人質時代に今川に行くところを、さらわれて織田に売られてしまうという事件がありました(なかったという説もあります)が、その時の首謀者が戸田康光で、この事件に怒った今川義元によって戸田氏は攻められて居城田原城は落城することになりました。戸田康光は、戸田三郎右衛門の伯父にあたります。戸田三郎右衛門の父戸田光忠(康光の弟)は、田原城落城の折、岡崎に逃れて、やがて家康と縁戚を結び家康の家臣となります。今回は、一揆勢に付いたということで、勘気を被ったのでしょうか。
夏目次郎左衛門の話は有名で、「どうする家康」では、コメディタッチで家康がすぐ名前を間違える武将夏目広次として登場します。このあと、夏目は、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死しますが、この時のことがあって身代わりをしたと言われています。

夏目広次を演じる甲本雅裕さん(NHK大河ドラマ「どうする家康」より)
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