愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(74) 松平記

2024年07月29日 06時35分08秒 | 松平記

松平記p74

翻刻
揆ともをハかり、和談の才覚有。一揆共も三ケ寺を大切に
存迄にて、さすがに国郡をとらんとの義にもあらず、度々
の合戦に打負大かた退屈しける時分、大久保五郎右衛門
方より、色々いさめ、異見に及間、蜂屋半之亟降人に成て御
免を蒙ふりしかハ、其外石川善五左衛門、同源左衛門、同半
三郎、本多甚四郎も降参し、敵の案内くハしく申上て、又御
訴訟に寺中ハ本のことく立をき、不入に被仰付、一揆共も
命を御助候様に御和談被成、可被下候ハゝ、一揆共皆、御味
方になし、上野城をかつき、可進由申候。家康聞召、寺内を本の
ことくに被仰付候ハん事尤也。一揆に於てハ御誅罰有

現代語
(一)揆どもをはかり、和談の考えがあった。一揆たちも三か寺を大切にしたいだけのことであって、さすがに国や郡をとろうということでもない。度重なる合戦に打ち負かされ、打つ手がない状況の時、大久保五郎右衛門忠俊よりいろいろと宥めたり、説得をしたりしたので、蜂屋半之亟が降参して一揆勢から抜けたので、他にも石川善五左衛門、石川源左衛門、石川半三郎、本多甚四郎も降参し、敵に味方(一揆勢)の実情を詳しく話し、そして訴えの文に寺は破却しないこと、不入の特権も残し、一揆勢の命も助けるように家康様が和談をしてくだされば、一揆勢は皆家康の味方になり、上野城(酒井忠尚)を降参させることを述べた。家康はこれを聞き、寺内を元のようにしておくことは尤もである。一揆勢においては、誅罰がある‥‥

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