松平記p75
翻刻
へきとの儀也。然を、かれら大久保五郎右衛門を頼、色々御
内証申、とかく御和談可、然し、さるからハ酒井将監并東条
殿、荒川甲斐殿以下皆押つふし候。半事いとやすし。国中御
静謐の基成べしと頻に申上しかハ、則和談有。上和田成就
院にて起請を書て、寺中并一揆をは助らるへし、御忠節可
申候由、被仰聞召。彼者とも案内申て、石川日向守を大将
にて、とろの寺内へ、高須の口より八町引入ける程に子
細をしらさる一揆共、乱れさわぎけるに、石川大声をあけ
て皆々和談にて御助有そ、さハくへからすと、よばわりけ
る間、皆々悦て一揆とも味方に成て合戦しける間、松平監
現代語
(一揆勢においては、誅罰がある)のが当然であるとのことであった。一揆勢は大久保五郎右衛門を頼りにし、いろいろ内輪のことも話し、とにかく和談するべきであると申した。。しかし、そうであるならば、酒井将監や東条殿、荒川甲斐守殿以下みな押しつぶすべきである。半事は大変簡単なことである。国中静謐の基であるとしきりに申し上げたので、和談は成立した。上和田の成就寺において起請文を書き、寺中並びに一揆衆は助けられること、家康に忠節をする由、家康はお聞きになった。石川日向守を大将に立てて土呂の本宗寺、高須口より八町ほど入った。すると詳しいことを知らない一揆衆は騒ぎ立てた。石川日向守は大声で「皆々和談にてお助けあるぞ。騒ぐな」と叫んだので、一揆衆は喜んで家康の味方となり、合戦におよんだ。それで松平将監‥‥