愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

加茂一揆(5) 辰蔵の家

2017年10月01日 17時47分02秒 | 加茂一揆
9月25日、加茂一揆の主導者の一人辰蔵の家を見に行きました。辰蔵の家は下河内にあります。「豊田市史」「農民騒擾の思想的研究」によれば「下河内」というバス停があり、そのバス停のすぐ北にあるということでした。

現在の下河内 
豊田市大内町下河内内、同町庄屋敷、同町寺田、同町宮脇のあたり

しかし残念ながら「下河内」というバス停は見つかりませんでした。あとでネットで調べたところ、今は「おいでんバス」が運行していて、「大内」というバス停でした。でも、それも見つかりませんでした。

下河内は、日明の方へ行く道と松平方面へ行く道との分岐点です。今は下河内から東のほうに行ったところに国道301号線と県道360号線の分岐点があり、県道360号線をまっすぐ行きますと日明のほうに行きます。しかし、その分岐点より西のほうに国道301号線から分岐する小さな道があります。その道は、下河内の集落を通り、県道360号に合流しています。
その西のほうの分岐点は、南に折れると、大給(おぎゅう)のほうに行きます。大給は、大給城もあった場所で、大きな村であったと思いますので、分岐点は、昔はここだったのではないかと思いました。


下河内村地図

下河内村西の交差点付近

そして下河内の奥のほうへ進んでいきますと、山際にたくさんの家が並んでいました。
「いったいどの家が辰蔵の家なのだろう」
手がかりもなく歩いているとき、ふと「鴨の騒立」の文を思い出しました。

後の話ですが、一揆勢が石御堂を出発した後、新井前、岩谷を経由して下河内の辰蔵宅に来ました。その時に、一揆勢が多勢で、家にはもちろん入りきれず、近くのお宮まで人であふれたという記事があったことです。

・・・(辰蔵の家に)弐千五百余人入来る。本宅・新宅・小家まで入たれ共尽きざれば、前の宮、後の軒端まで込み居て、・・・

「鴨の騒立」より

もしかしたら、近くに神社があるのではないかと思い、探してみました。すると、ありました。「大内神社」です。

大内神社

先ほどの地図でも確認できますが、下河内の東のほうに大内神社というのがあります。大内神社がいつごろからあるかは確認できませんでしたが、もし江戸時代から建っている神社であれば、「鴨の騒立」で記載されている「前の宮」とは、この大内神社の可能性があります。逆に言えば、辰蔵の家はこの大内神社の近くにあった、ということになります。
一揆では、この下河内の辰蔵の家に2500余りもの人が押し寄せてきたのです。家も神社もいっぱいになったのは、頷けます。

なお、「豊田市史」「農民騒擾の思想史的研究」では、近くに柿の木があるというので、それも探してみました。柿の木はありませんでしたが、切株は残っていました。ただし、何の木かはわかりませんでした。

切株

加茂一揆(4) 石亀坂集会

2017年09月20日 05時57分28秒 | 加茂一揆
渡辺政香「鴨の騒立」第3回 石御堂への動き

 又加茂郡松平村に隆蔵というものがおった。これも知恵が働き、口のうまい男だったが、千蔵・繁吉の元に行き、
「騒動の話があるが、我等のような者では、頭となって計画をすることは難しい。願わくはご両人(千蔵・繁吉)が指図をしたほうがよい。」
と頼んだ。はじめからそのつもりであった二人だったので、さっそく隆蔵の意見に同意し、この企てを起こすことにした。
 一説に、大田村信光寺で集まりがあり、そこでこの騒動を企てたという説もある。
 また一説に、徒党三十人あまりが松平村隆蔵宅に相談に行った。しかし、隆蔵は下河内村辰蔵の宅に行っており留守であった。留守の女房が言うところでは、
「お前様方大勢が来ていただいたが、亭主は留守です。相談することがあれば、他でしてください。私の家では相談することはやめてください。」
と断ってきた。徒党の衆は、もっともだと、羽明村石御堂に集まり相談したそうである。
  一説に、石御堂は滝脇村にあるという説もある。
 
いよいよ一揆の計画段階になります。
「鴨の騒立」では、要約すると以下のように話が広がり、石御堂へと動いていったようです。
①松平村の隆蔵が、九久平村の千蔵・繁吉に「指図」を依頼する。
②の1 大田村信光寺で、会合、一揆へ
②の2 はじめ松平村の隆蔵宅で会合したが、場所を変えて羽明村石御堂で会合した。
②の3 はじめ松平村の隆蔵宅で会合したが、滝脇村石御堂で会合した。

しかし、これらの記述は豊田市史では採用されず、中間に石亀坂での会合などがあったとされています。

以下、豊田市史の内容を要約します。
①9月16日、下河内村の辰蔵の家で、松平郷の柳助(隆蔵)、九久平村菅沼の繁吉が会合
②9月20日、松平郷の柳助の家に関係者が集合する。しかし柳助が集会の会場となることを拒否。一同は茅原村石亀坂へ移動する。参加者、下河内村の辰蔵、松平郷の柳助、勇、九久平村菅沼の繁吉、九久平村山中の吉蔵、北川向村の文六、仙蔵、平吉、林添村の弥平、切二木村の吉右衛門、三平など
③9月21日、石御堂に集結

なお、人物の名が食い違っています。
「鴨の騒立」松平村の隆蔵=「豊田市史」松平郷の柳助
   九久平村の千蔵=     九久平村菅沼の仙吉

松平郷の柳助が自分の家で集会をやることを拒んでいますが、松平は領主松平太郎左衛門の屋敷があるところですから、そのお膝元で、このような物騒な集会をやったら、すぐに見つかりますし、ただでは済みません。また、一揆そのものも潰されてしまいます。そういうことを考えると、柳助またはその女房が、場所を変えてくれと言ったのは、もっともです。


石亀坂集会の主な参加者(豊田市史「天保4年割木騒動をめぐる村々」に加筆しました)

また、石亀坂集会では、何を、だれに、どのように要求するのかが話されています。(参考「豊田市史」)

要求する事柄(対象)
・米価を1両につき6,7斗にすること(米屋・酒屋)
・頼母子講を2年間休会すること(役所?)
・諸色(物価)を引き下げること(米屋・酒屋)
・年貢金納相場を1両につき、6,7斗にすること(役所)

頼母子講とは、一般に民間での金融的な組織となっていますが、松平地域では領主の松平太郎左衛門が親で、村単位で行っていたようです。領主財政が厳しくなり、借金が返せなくなるほどになっていたようで、頼母子講で得た金を財政の赤字に充てていたようです。また、これに高利貸しが加わり、利益を得ていたようです。頼母子講は、定期的に開催され、その都度百姓が掛け金をとられる仕組みだったので、2年間休会せよとは、飢饉、物価高騰の時節柄、頼母子講に出す金はないということからだと思います。

要求実現の方法(主張者)
・米屋・酒屋を打ち壊すと流言して、六所山で集会を持つ。仲裁・調停に応じる(辰蔵)
・酒屋・米屋と交渉する。交渉に応じない場合は役所に願い出る(柳助)

一揆の組織づくり
・内通者が出ないように、役所に「遠見」(見張り)を雇う
・内通者は、直ちに家を打ち壊す
・人数が少ないので、各村々に2~3人の参加者を募る(廻状を回す)

加茂一揆(3) 九久平

2017年09月19日 05時06分16秒 | 加茂一揆
割木騒動の舞台は九久平です。

九久平の地図(Googleマップより作成)
Googleマップを検索していると、発見が2つありました。
一つは「港橋東」という交差点です。当然この交差点の橋の名は港橋ということになります。つまりここに港があったという名残だと思います。

実際、橋がありました。写真の右側が九久平で左側が岩倉・平古です。

港橋

近くの松平交流館に寄って資料を探していますと、ご年配の職員の方が親切に「このパンフレットを持っていくといいよ」と教えてくれました。

パンフレット「松平のむかし話と言い伝え」

このパンフレットによると、「巴川水運の川港の近くに架けられたので、港橋と呼ばれるようになりました。」と明記してありました。
なお、この橋は明治3年に架けられ、明治8年に洪水で流されました。洪水のたびに流されるので、「流橋」(橋の横板が針金やロープでつないであり、洪水で流されると拾い集めて、また橋にした)になっていました。昭和7年に死者が出る事故があり、新しい橋の建設が始まりました。財政難で難儀したそうですが、昭和10年に鉄筋の橋になったそうです。そして平成9年、現在の橋にリニューアルしました。

二つ目は、「(資)鍋嘉商店」というお店です。割木騒動で騒動の対象となった問屋の一つが「鍋屋嘉兵衛」という材木問屋です。ほかの資料でも九久平の代表的な材木問屋として鍋屋嘉兵衛の名が載っています。「鍋嘉」とは「鍋屋嘉兵衛」の短縮形ではないだろうか。このお店はもしかしたら鍋屋嘉兵衛のお店ではないだろうかと思いました。
実際その看板がありました。

「鍋嘉商店」

しかも近くに材木置き場があり、まさに「材木問屋」のようでした。しかし、お話を聞こうにも人影がありませんでしたので、ちょっと離れたところにあったお菓子屋さんを訪ねました。「志満屋(しまや)」というおしゃれな和菓子屋さんです。

お菓子屋「志満屋」(Googleストリートビューより)

「この近くに鍋嘉商店というのがありますけど、昔は材木問屋だったのでしょうか。」
お菓子屋さんの若いおかみさんに聞きました。しかし、分からないということでした。ご主人さんにも出ていただきましたが、分からないということでした。ただ、「加茂一揆」については、娘さんの小学校で学芸会の演目になっていたとか、子どもたちが裏山にある辰蔵さんの墓を見学に来ているなどのお話をしていただけました。
「志満屋」はとても感じの良いお店でした。

加茂一揆(2)

2017年09月18日 06時22分06秒 | 加茂一揆
2017年1月以降中断していた「鴨の騒立」の続きを書きます。
前回は、天保7年8月に天候不順があり、飢饉になったこと、それもかなり規模の大きい飢饉であったこと、そして、そのことから甲州で一揆が発生したことが描かれました。

前回の「加茂一揆」

今回は、加茂一揆の前哨戦ともいうべき騒擾が九久平で起こったことが述べられています。いわゆる九久平割木騒動です。

渡辺政香「鴨の騒立」第2回 割木騒動

これ(騒擾)は他国のことと思っていたが、三河でも同じことがあった。加茂郡九久平村に、千吉・繁吉という兄弟がいた。大工を家業としていた。この者が騒立の張本人であるが、人柄があまり良くなく、頭も賢くなかった。また、加茂郡下河内村に松平辰蔵という者がいた。
辰蔵は、初め大工を生業としていたが、後には小相撲をとったり、博打を好み、俗に言う道楽者であった。しかしながら、賢くて、口が達者な男であった。去る巳年(天保4年)12月下旬のことであった。下河内・七売(ななうり)・林添(はやしぞえ)・松平・茅原(ちはら)・大田(だいた)・大津・二口(ふたくち)・羽明(はあす)・歌石・椿木(つばやき)・真垣内(まなかいと)・下屋市・提立・二王・正作(しょうさく)・所石(ところいし)・杉木・宮口・上脇・五閑・川田・永嶋の23ヶ村から、割木(1)を年々九牛村問屋(2)へ送っていた。問屋とは、豆腐屋茂七・問屋新左衛門・万屋(よろずや)平八・鍋屋嘉兵衛・横手甚右衛門・輪違屋(わちがいや)等6、7軒のこと(3)で、問屋たちは申し合わせて山より出された割木を安く買い取ったため、23ヶ村の村人は一様に憤った。これを見た下河内村の辰蔵は、知恵をめぐらし大勢を騒ぎ立てさせ、九久平村の問屋を毀そうと企てた。(4)村々の者たちは、斧・まさかり・なた等を携えて、九牛村へ押し寄せた。問屋たちは、この勢いに驚き、慌てふためき、仲間同士で相談して、
「下河内村の辰蔵は、日ごろ小ざかしく口も立つ。争論があれば、内々に話をして事を解決させている。彼に話を持ちかけてこの騒ぎ立てを鎮めよう」
といって、辰蔵に調停を託した。辰蔵は、承知して右の村々に、元の値段で割木を買い取ることを話したので、23ヶ村の人々は引き取ることになった。問屋たちは、危機を逃れたのは全く辰蔵が調停をしたおかげであると、厚く謝礼をしたそうである。(5)

注意書き
(1)割木 細かく割った木。かまど用・炭焼き用等に使っていた木だろうか。
(2)問屋 割木を近隣の村から集め、それを小売商に卸していた問屋のことだろうか。
(3)問屋の名前に、豆腐屋、鍋屋など商売をしていると思われる名前があるので、割木問屋と商売を兼ねていたことがうかがわれる。また、輪違屋とはネットで調べると①京都にあった置屋兼茶屋のこと。つまり芸妓などを置いたところ②「輪違屋 三河」で検索すると、赤坂宿の脇本陣の名前が輪違屋である。また鳴海宿の旅籠屋の名前として登場する。どういう意味合いで使っているか不詳。
(4)割木騒動とは、これを読むと松平辰蔵による計画的な騒動ということになる。
(5)割木騒動では、はじめから辰蔵が仕組み、村人をけしかけて「騒動」を起こし、それを圧力として辰蔵が問屋たちから「謝礼」を受け取ったという構造になる。



天保4年割木騒動をめぐる村々(昭和56年「豊田市史 2巻 近世」より)

 割木は、おそらく矢作川下流域の瓦製造業者、陶器製造業者たちが燃料として使ったもので、松平地域でも生産され、九久平の問屋を通して下流域に運ばれたものと思われます。九久平は巴川の港があり、そこに下流からは塩などの物資が運ばれました。割木騒動は、その問屋が相談して割木の値段を低く抑えたことに始まります。これを見た辰蔵は、憤った百姓たちを煽り、23か村の村から問屋めがけて騒動を起こしました。問屋たちは辰蔵に仲介を頼み、割木の値段をもとの値段にすることで騒動は収まりました。辰蔵は、問屋たちから謝礼をもらったということです。
 
 ここから、当時の三河の百姓たちが米作だけではなく、林業(割木の生産)を営んでいたことが分かります。また、23か村に騒動が広がったことから、そういう形態で生計を営んでいた人たちがたくさんであったことが分かります。そして、23か村の人たちが辰蔵を中心にまとまって行動を起こしたという点です。百姓たちがバラバラではなく、自分の生活を守るために団結できたということは、日ごろからいろいろな接点があったと思われます。

 また、割木騒動は、飢饉→米の不作→年貢が払えない→一揆へ、という単純な構造ではなく、商業的な要素を十分に含んだ一揆であることがうかがえます。多くの百姓は、割木を売ったお金や街道での運送業などで得た金で米を買って生活していたものと考えられます。

 また辰蔵についての記述がありますが、なんとなく「悪い奴」「ずるがしこい奴」という印象で描かれています。これはこの「鴨の騒立」の作者である渡辺政香の神職者という立場を反映したものであると思われます。むしろ「邪智ありて、小ざかしく口きく男子なり」とあるように、商才に長け、交渉がうまく、雄弁な男であったと考えられます。このような資質を持った者であったからこそ23か村の百姓を煽ったり、問屋たちと交渉をしたりすることができたのだと思います。

加茂一揆(1)

2017年01月16日 09時43分20秒 | 加茂一揆
久しぶりに愛知県でも雪が降りました。しかも週末に合わせたように。史跡めぐりをと考えていましたが、残念ながら、雪の為にかないませんでした。おとなしく家で読書を、ということになりました。

1月15日早朝、愛知県尾張地方の雪

そこで、以前から気になっていた加茂一揆について調べることにしました。

加茂一揆は、江戸時代の末期に愛知県西三河部旧加茂郡一帯に起きた大規模な百姓一揆です。この一揆には、大変興味があり、ずいぶん昔になりますが、数名で車による一揆見学をしたことがあります。高校の教員の方に案内していただき、だいたい一揆が通った経路を回りました。その時に一揆の首謀者とされる松平辰蔵の家(跡地)やお墓を見させていただいたことが、今でもよく覚えています。

そこで、加茂一揆の有名な資料である「鴨の騒立」という文をやさしい文に直し、少しでもこの一揆の様子をブログの読者の皆さんに知らせたいと考えました。

「鴨の騒立」は、西尾藩の神官渡辺政香という人が書いた加茂一揆の史料です。渡辺政香は、博学で三河地方の歴史や地理をまとめた「参河志」という本も著しています。

なお、原文は当然江戸時代の文字で書かれていて、残念ながら私は解読できませんので、以下の書き下し文になっているものを元の文としました。

高橋磌一(しんいち)・塚本学 校注「鴨の騒立」日本思想史大系「民衆運動の思想」(1970年 岩波書店)所収

鴨の騒立(1)
 三河国加茂郡一揆のそもそもの起こりを考えてみると、天保7年(1836)8月13日のことである。昼の3時ごろ、雷がなり、暴風雨がおこった。夕方の5時ごろには、風が激しく吹き、竹や木はもちろん、家までが多く吹き倒された。夜の7時ごろになって、ようやく風が収まった。わずか4時間ぐらいの間に全国いたるところの国が凶作になり、米穀の値段が次第に高騰してきたので、(8月ごろには、十両に12~3俵といっていた)8月21日には、甲州に一揆があり、富豪たちを打ち毀した。しかし、江戸の役人や隣国の諸大名や役人が出動したので、8月25日には甲斐の国が静まった。


「鴨の騒立」の書き出しです。
加茂一揆の原因としてその年の8月に暴風雨があり、凶作となったことが挙げられています。この凶作は、「天保の飢饉」といって、江戸時代では大きな飢饉の一つに数えられています。ウィキペディアでは、寛永、享保、天明、天保を4大飢饉としています。また、この天保の飢饉は1833年と1836年に大きな凶作があったとしています。ちょうど「鴨の騒立」でいう天保7年のことです。
この年は、春から雨がちで天候不順であり、稲の生育が悪く、そこへとどめのように8月に暴風雨が吹いたので、壊滅的な打撃を受けたと言われています。

 この飢饉では餓死者を出さなかった藩があったことも記しています。以前ブログで書いた田原藩です。渡辺崋山によって「報民倉」が設けられ、救済にあたったからです。

 次に米穀の値段ですが、「農民騒擾の思想史的研究」(布川清司 1970年 未来社)に、1升当たりの米の値段の推移についての表がありましたので、1両あたりの米の量に換算して掲載します。これをみると、天保8年の1両につき2.5斗ととんでもなく高騰していることが分かります。


 最後に、甲州一揆についてですが、「日本思想史大系」の注意書きには、「郡内騒動と呼ばれる大打ちこわし。都留郡地方に始まり、ほぼ甲斐一国に及んだ」と書かれています。おそらくこの一揆の方が早く始まっているので、加茂一揆にも何らかの影響を与えたのではないかと思われます。