愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

上之郷(かみのごう)城跡(2) 蒲郡市

2015年11月02日 09時38分31秒 | 蒲郡市
上之郷城縄張図

上之郷城縄張図、現地案内板より

現地は道が狭く、なかなか辿りつくことができませんでした。近くに赤日子神社がありますので、そこを目当てにくればよかったと思いました。赤日子神社に駐車スペースがありました。

赤日子神社の北西に上之郷城の案内掲示板がありました。


地方領主の生活を考える貴重な資料
掲示板によると、この史跡から金銅金具、数珠球(めのう製)、砥石、弾丸などが出土し、主郭には7棟から8棟の建物があったそうです。ここから、戦国期における地方領主の生活を考える上で、貴重な資料であると紹介していました。

遺構や出土品を紹介する案内掲示板

Ⅱ郭
案内標識に従って進んでいきますと、まず、Ⅱ郭の虎口らしいものが見えてきました。

Ⅱ郭虎口

Ⅱ郭に入りますと左側に大きな土塁が見えました。Ⅱ郭の南西側を巡っていました。




Ⅱ郭はみかん畑になっていました。


東郭
主郭に登る道の右側には東郭がありました。2段になっていました。


主郭
主郭の虎口がありました。


主郭は、ほぼ中央辺りが段になっていました。


この上之郷城では徳川家康と鵜殿氏による熾烈な戦いがありましたが、今は、周りがみかん畑になっていて、大変のどかな風景が楽しめました。

海の幸を堪能
さて、蒲郡に行ったので、海の幸を堪能することにしました。和食の『美波』というお店をネットで探し行ってみました。


ランチタイムのメニューがあり、『懐石ランチ』1500円でした。(税別)大変おいしかったです。

上之郷(かみのごう)城跡(1)鵜殿氏 蒲郡市

2015年11月01日 17時33分16秒 | 蒲郡市
見学日 2015年10月18日(日)
所在地 蒲郡市神ノ郷町城山


上之郷城は、蒲郡のほぼ中央山よりにあり、ここから三河湾がよく見えました。城主鵜殿氏は、海の産業も関わっていたのかとも、思いました。


上之郷城跡からの眺め。三河湾がよく見えました。

関係する武将
鵜殿氏 上之郷城は、15世紀ごろから鵜殿氏の拠点でした。鵜殿長善の子どもの代から上之郷鵜殿家と下之郷鵜殿家に分かれたようです。上之郷は、鵜殿長善の子鵜殿長将から始まりました。

桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、上之郷家は、そのまま今川への忠節を守りましたが、他の鵜殿家は徳川家康の傘下に入りましたので、一族は分裂することとなりました。

系図(上之郷鵜殿家)


鵜殿長将 今川氏に仕えました。

鵜殿長持 今川義元の妹婿となり、待遇が向上したそうです。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が敗れると一族は分裂し、今川家に忠節を尽くしていた上之郷家は孤立していきました。永禄5年(1562年)には、徳川家康の攻撃を受け、子の長照とともに戦死しました。この戦いでは、忍者が城に忍び込み、火を放って混乱したところを家康軍が攻めて落城させたようです。

鵜殿氏長・氏次 鵜殿長持の孫、鵜殿長照の子。同時に今川義元の孫にあたります。永禄5年(1562年)に家康によって父、祖父が戦死し、松平氏により人質となりました。

人質交換
 永禄5年の戦いの後、徳川家康は、捕らえた鵜殿氏の氏長・氏次と、今川氏に人質として出していた瀬名姫(家康の正室、築山殿)、竹千代(家康の嫡男、信康)、亀姫(家康の長女、後に奥平信昌の正室)らの人質交換を今川側に要求しました。交渉は成立し、徳川家康は家族を自分の下に戻す事に成功しました。

三河物語より
大久保彦左衛門忠教「三河物語」では、下記のように記述しています。

 其より、東三河へ御手を懸けさせ給いて、西之郡之城(上之郷城)を忍び取りに取らせ給いて、鵜殿長持を打ち取り、両人之子供(鵜殿氏長、氏次)を生捕給う。
 然る間、竹千代様(徳川信康)をば駿河に置きまいらせられて、御敵にならせ給いければ、竹千代様を「今害死し奉れ」「後害死奉れ」「今日の」「明日の」とののしれども、関口刑部之輔殿(今川義元の妹婿で徳川家康の正室瀬名姫(築山殿)の父)の御孫(つまり徳川信康が、関口の孫であるということ)なれば、さながら害死し奉る事も無し。然らば、石川伯耆守(石川数正)申しけるは、「いとけなき若君御一人戕害(しょうがい、殺すという意味)させ申さば、御供も申すもの無くして、人之見る目にもすごすごとして(しょぼしょぼして)、おわしますべし。然らば、我らが参りて御最後之御供を申さん。」とて駿河へ下りけるを、貴賎上下感ぜぬ者もなし。
 然る処に、「鵜殿長持子供に人質替えにせん」と申し越しければ、上下万民喜び申すこと際限なくして、さらばと云いて、替えさせ給う。其の時、石川伯耆守御供申して、岡崎へ入らせ給う。上下万民、続いて御迎えに出でにけるに、石川伯耆守は、大髯をくいそらして(髯の先を反りあがらせて、得意な様子)、若君を頸馬に乗せ奉りて、念じ原へ打ち上げて通らせ給う事之見事さ、何たる物見にも是に過ぎたる事はあらじとて見物する。「氏真は、さてもさても阿呆の人かな。そもそも竹千代様を鵜殿に替えるという、方薬(あほう)かな。」と云いたり。


人質交換の交渉に当たった石川数正が交渉を成功させた事で、得意満面で岡崎に帰還し、今川氏真を阿呆呼ばわりしていることなどが描かれています。

五井城 蒲郡市

2013年09月29日 06時51分50秒 | 蒲郡市

五井城のあったらしい八幡宮を望む。手前の池は、五井城のお堀だったようです。

長泉寺
 五井城の近くに長泉寺というお寺があります。鎌倉時代からの古いお寺のようです。

長泉寺本堂

安達藤九郎盛長
 ここに、安達藤九郎盛長という人の五輪塔がありました。


 安達藤九郎盛長という人は、源頼朝の家臣だったようです。案内板によると、1192年安達藤九郎がこの三河の守護になったそうです。そして「三河七御堂」といわれる寺院を建立したそうです。三河七御堂とは、五井の長泉寺、吉良の金蓮寺、鳳来寺、豊橋の普門寺、財賀寺、法言寺、大塚の全福寺(廃寺)だそうです。これらの寺は、かなり古いということになります。
なお、案内板によると、この長泉寺は、行基の開基といわれているそうです。(724年~728年)すごく古いです。



長泉寺の由緒を伝える案内板

五井松平
 五井松平は、松平信光より分家したものです。

(系図)
松平信光-(始祖)忠景-元心-信長-忠次-景忠-伊昌-忠実-伊耀

 名前を見て、びっくりです。信長という人がいたのです。さらに、始祖忠景をひっくり返した景忠という人もいたのです。
 さて、三河一向一揆のときは、景忠です。景忠は、一揆勢に与した上野城、酒井将監忠尚の娘婿だったようです。それでも景忠は、家康側について一揆勢と戦ったようです。奥さんは大変だったと思います。

五井松平氏のお墓

堀の跡
 八幡宮の前にある池は堀の跡ということになっていますが、お隣の長泉寺の門の前も両側が深く溝状になっていて、堀っぽいので、写してきました。



長泉寺に向かって右側の様子。


同じく左側の様子。

形原城 蒲郡市

2013年09月22日 06時01分22秒 | 蒲郡市
 形原城は三河一向一揆で家康側松平氏の形原松平氏松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)のお城です。

形原城の遠景。形原城を海のほうから見た。手前の家は関係ありません。奥の小山が形原城です。


入り口は、稲荷神社の鳥居でした。左の石碑に「古城 稲荷社」と記されていました。


形原城址の看板

お妙塚

 頂に着く前に「お妙塚」というものがありました。詳しくは、案内板にあるとおりです。言うことを聞かないわがまま君主を守った乳母のようです。説明文で、「又七郎」が、途中で「又三郎」に変わっているのは、何かの間違いではないかと思いました。


曲輪跡?
 「お妙塚」は、道の左側にありましたが、右側は少し広い平地になっていました。これはいわゆる曲輪ではないかと思いました。

曲輪と思われる平地。左上は頂です。

形原城址

「形原城址」の石碑


「古城稲荷社」の社

疑問 形原松平氏の収入源
 ここで、疑問がわきました。蒲郡(形原)は、海の近くでたぶん産業としては漁業で栄えた地域と思われます。とすると、形原松平の収入源は米というより水産物だったのではないか。米も収入源としてあったとしても、水産物の割合も高かったのではないだろうか。ということ。さらに、戦のときの兵隊は漁師だったということだろうか。

形原城址関連地図

 地図を見ると、「東古城」(形原城址のあるところ)「北古城」「南古城」というお城に関係した地名が見られました。

光忠寺
 近くに形原松平氏のお墓があるというので、立ち寄りました。「光忠寺」です。

ものすごい松がありました。(写真左側)


お墓は、お寺を入って左側に立派に区画されていました。

竹谷(たけのや)城 蒲郡市

2013年09月21日 18時12分29秒 | 蒲郡市
なかなか見つからない

 竹谷城は、なかなか見つかりませんでした。はじめ塩津中学校を目印に行きましたが、塩津中学校の北の藪を捜して見つかりませんでした。そこで、塩津中学校の北の山、北東の山を探し回りましたが、見つかりませんでした。しかたがなく、竹谷町神田付近で作業をしている方に城跡の場所を尋ねました。
「全保寺(ぜんぽうじ)の前だよ。石碑は、大きな道に出る前に左側にあるよ、分かりにくいけどね。」と教えていただけました。


全保寺

北のほうに入り口、土塁らしきもの発見
 確かに分かりにくかったです。西のほうから近づくと、それらしい入り口を見つけました。また、土塁のような跡も見つかりました。

北の入り口か?


土塁か?

本丸跡は、みかん畑?
 入っていくと、広い場所に出てみかん(ゆず?)畑になっていました。多分ここが本丸だろうと思ったのですが、例の石碑がありません。

みかん(ゆず)畑になっている本丸と思われる所

看板があった
 そこでまた、塩津中学校の東の山を捜し歩きました。すると偶然山の東のほうから奥のほうに看板が見えました。何度も通っていたのですが、見落としていたのです。本当に分かりづらい看板でした。


 そこから登っていくと、お目当ての石碑がありました。なんと、さっきのみかん畑のすぐ奥の場所だったのです。疲れた。

石碑。写真で左側がみかん畑でした。

竹谷松平氏の五輪塔
 竹谷松平氏の墓は、塩津中学校の西にありました。白い塀に囲まれていました。墓は、五輪塔になっていました。ちなみに竹谷松平氏は、松平宗家3代信光の長男守家が竹谷へ移住し、竹谷松平家の祖となって、1503年守家没後、2代守親-3代親善と続き、4代清善より家康に仕え、1562年「上ノ郷城攻め」に参戦し、三河一向一揆でも野寺本證寺、針崎勝鬘寺の反家康軍と戦っています。

白い壁で囲まれていました。




五輪塔の案内板です。

尺地神社
 また城址の南には「尺地神社」があり、城の南の守りとして置かれたことが由来に書いてありました。

尺地神社


尺地神社から見た竹谷城址