愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

河嶋村古城(太田屋敷) 安城市

2019年09月30日 13時01分53秒 | 安城市
「三河二葉松」を読んでいきますと、たくさん古城が記されています。しかし、現在は市街地となったり、耕作地になったりして遺構がないという城が結構あります。そんな中で、河嶋村古城は、遺構らしきものが残っているということで、出かけました。

河嶋古城があったらしいところ

川島村古城航空写真(グーグル写真より加工しました)青い線は堀、黄色い線は土塁です。

「三河国二葉松」には以下のように紹介されていました。
太田主計同左馬助子孫今水戸家仕官
太田主計(おおたかずえ)と太田佐馬助という武将がここを拠点にしていた。また、現在(江戸中期)子孫が水戸家に仕官しているということです。
太田主計、左馬助を調べてみましたが、どういう武将か分かりませんでした。この地の有力者であり、名主的な存在だったのでしょう。近くに「太田」という名字の家がありましたし、太田家のお墓もありました。何といっても地名が「太田屋敷」ですから、地域の名士だったことは疑いのないところです。

屋敷西側の堀 ここは、くさりが架けられ溝に落ちないようにしてありました。北東側にも堀がありましたが、そちらは特に鎖はありませんでした。

この堀から屋敷の方を覗きますと、土塁らしきものが見えました。

堀越しに見える土塁

この土塁は、せいぜい堀底からでも2mぐらいで内側からは1mあるかないかぐらいの低い土塁です。ネットでは、水害対策用ではないかとの意見もありました。確かにすぐ間近に矢作川があるので、そうかもしれないと思いました。

この屋敷から西の方にお墓がありました。「太田大尉戦死の碑」という銘がありました。裏面には、「明治四十三年九月建立 父太田源七」とありましたので、おそらく日露戦争で子どもさんが亡くなられたのだと思いました。

太田大尉のお墓

さて、この辺りには西側屋敷とか、東屋敷、西屋敷という地名があり、いかにも昔は武家屋敷があった場所という地名でした。そこでいろいろ散策していますと、「西心寺」というお寺があり、そこに寄進した人の名前がまた「太田さん」でした

西心寺

寄進者 太田さん

太田さんゆかりの地でした。

木戸城(3) 安城市

2019年09月18日 06時07分36秒 | 安城市
神社境内に入り南東の端に高まりがありました。調査報告書では発掘で確認された土塁との連続性がみられるとしたが、「明らかにできない」としています。土塁の跡だろうなあと思いました。


神社境内南東端の高まり

この高まりの奥はきれいな切岸になっていました。

神社西側の切岸

圧巻はこの神社の北側にある空堀です。結構深く良好な感じで残っていました。

北側の空堀(1)


北側の空堀(2)

この堀を見ただけでも来てよかったと思いました。

さて、上記概要図を見ると、神社の建物がちょうど堀の間に建っています。調査報告書では、神社の建物を建てるときに土盛りをしたのではなく、神社の建物の下は土橋だったのではないかと推測しています。なるほどなと思いました。

また、発掘で、建物跡(掘っ立て柱の穴)や柵跡が見つかったそうですが、埋め戻されていて、現場はどこかよく分かりませんでした。残念。

今回、発掘調査報告書を偶然見つけたおかげでおもしろい見学ができました。最初に書いたようにセトモノの知識を得ることに努力したいと思いました。

木戸城 おしまい

木戸城(2) 安城市

2019年09月17日 05時38分55秒 | 安城市
さっそく9月16日(月)木戸城に出かけました。



木戸城概要図(上記調査報告書に加筆)

木戸城は、現在春日神社になっています。「三河二葉松」で「社地也」と記述されていますので、江戸時代から
春日神社があったのかも知れません。

木戸城は、現在春日神社

神社東側の鳥居を見ると、まず左側に小さな高まりがありました。調査報告書では土塁ではないかとみています。

東側鳥居左の高まり(土塁?)

さらに、その鳥居の右側にも高まりがみられました。これも土塁ではないかと思われました。

東側鳥居右の高まり(土塁?)

そして、この土塁の外側には空堀がありました。

神社東土塁の外の空堀

木戸城 つづく


木戸城(1) 安城市

2019年09月16日 19時44分00秒 | 安城市
先日ネットで木戸城を調べていましたら、愛知県埋蔵文化財センターの「木戸城遺跡・古新田遺跡」という調査報告書のPDF文書を見つけました。

木戸城発掘現地説明会(2001年11月)調査報告書より

この調査は、矢作川改修工事に伴い、国土交通省から愛知県教育委員会を通じて、上記センターに委託があり、2000年10月~11月に行われました。

木戸城の位置(地理院地図より作成) すぐ南に矢作川が流れています。また、野寺本證寺、藤井城、浅井西城が近くにあります。

報告書を読むと、遺構として土坑や溝、土塁等が確認されたこと、出土品としてたくさんのセトモノ(すいません陶磁器に知識がなく、壺も茶碗もみんなセトモノという認識です)が出てきたということです。セトモノを見れば、その遺跡の年代が分かるそうで、そういう知識が必要だと痛感しました。
それと、略記号です。SA(柵)、SB(建物)、SD(溝)、SK(土坑)、SQ(土塁)というふうに初めに説明してありましたが、使い慣れていないので、いちいちこのページに戻って確認しなければなりませんでした。県民向けの調査報告書であるならば、もう少し優しい表現でもいいかなと思いました。

木戸城は、文明3年(1471)頃の築城とされ、松平信光が安祥城を攻略した時、松平家創設以来の重臣成瀬氏を呼び寄せ、木戸に居館を設けさせました。これが木戸城で、目的は小川の石川氏、藤井の松平氏に対峙するためだそうです。しかし、石川氏が松平氏に服従したので、木戸城は不要になったそうです。
これが、木戸城の一般的な説明だと調査報告書は述べています。このあと、いろいろと文献的にこの説明が妥当かどうか検討していますが、私には難しいので、一般論を紹介するにとどめます。

木戸城 つづく


堀内貝塚と周辺の古墳 安城市

2019年07月30日 17時17分07秒 | 安城市
堀内貝塚
目先を変えて、大昔の遺跡を回りました。7月12日でした。縄文時代晩期の貝塚です。堀内貝塚といいます。堀内貝塚は、愛知県のほぼ中央にあります。おそらく、この辺は海が近くにあったのだろうと思われます。

堀内貝塚の位置(Yahoo地図より)


堀内貝塚の碑

堀内貝塚は、なんと昭和2年から発掘調査が行われているそうです。この貝塚からは、アサリ、アカニシ、ハマグリ、マガキ、ハイガイ、オキシジミなどの貝が見つかっているそうです。どの貝も海水性です。堀内貝塚が海に面していたことはここからもうかがえます。

貝塚からでた貝殻(現地案内板から)

またここから出土した土器は、「桜井式」として基準の土器になっているそうです。

桜井式土器

他に、お墓の跡(土坑墓)、土器のお棺(子供用)、骨だけのお墓(遺体をいったん埋葬した後、骨だけを取り出して再び埋葬したお墓)などが出土したようです。おそらく、貝塚とお墓が何代もの間に交代して使われていたのでしょう。ということは、ここに縄文人が定住していたのでしょう。特に海の幸が豊富にある地域なので、可能だったのだと思われます。

古墳群
また、この貝塚の周りにいくつかの古墳もありました。この地域に縄文時代、弥生時代を通して人が住んで活動していたことが分かります。古墳があることから、貧富の差があり、富める豪族とそれを支える人々がいたのだろうと推測できます。

堀内貝塚の周囲の古墳(Google地図より作成)

今回見学できた古墳は西から
堀内古墳(天満山古墳)(形)円墳(?)(築造時期)?     (被埋葬者)
碧海山古墳      (形)円墳  (築造時期)古墳時代前半(被埋葬者)?
山伏塚        (形)円墳  (築造時期)8世紀   (被埋葬者)野田熊勝
比蘇山古墳 場所が分からず


堀内古墳 中央の小山で天満社になっています。


山伏塚 山伏野田熊勝の墓と伝えられています。


碧海山古墳 碧海という地名の元になったと言われています。