愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

金沢城(6) 石川県金沢市

2015年06月27日 06時40分23秒 | 石川県


石川門
五十間長屋の見学の後は、石川門です。これまで金沢城といえば、この石川門がその象徴だったように思います。大学も紹介される写真には必ず石川門があったように思います。逆に石川門に惹かれて金沢大学に入った方も多いのではないかと思います。そういう人にとっては、石川門をくぐっても大学がないというのは、寂しい限りだと思います。

石川門を内側からみた写真

石川門の石垣をよくみると積み方が違っていることに今気づきました。南西側は、「粗加工石積み」(この公園での展示)、北西側は「切石積み」です。


また、南西側の石垣には模様が掘り込まれていました。


そして、石川門の櫓です。

石川門から左のほうはかなり高い石垣がずっと続いていました。その下は百間掘りです。結構でかい堀です。今は道路になっています。

この石川門を通ってまっすぐ行くと、兼六園になります。

金沢城(5) 石川県金沢市

2015年06月26日 14時46分03秒 | 石川県


五十間長屋
いよいよ五十間長屋に入りました。なかはまだ新しくてぴかぴかでした。

五十間長屋の中

釘を使わないで組み立てた
いろいろな展示がありましたが、そのひとつは柱の組み立てに釘を使わないというものでした。

大工ではないので、詳しいことは分かりませんが、釘を使うより強いものが出来たのでしょう。

鉛瓦
また、屋根のことが展示されていました。「鉛瓦」と呼ばれるものです。金沢城の屋根瓦は、いわゆる瓦ではなく、木で瓦の形に作り、回りを鉛の板で覆ったようです。なまりは時間とともに白くなっていくので、金沢城が美しく見えるのだそうです。また、この鉛は、いざ戦争というときに溶かして鉄砲の玉にすることも出来て、実践的であるともいわれています。

鉛瓦の展示

実際の鉛瓦の屋根

他にもいくつか展示があり、見ごたえがありました。

金沢城(4) 石川県金沢市

2015年06月25日 18時29分12秒 | 石川県
鶴丸倉庫跡
本丸跡を出ると、右側に倉庫跡がありました。

何の変哲もない倉庫に見えますが、案内板によれば、江戸時代からこの金沢城に残っているもの3つ(石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫)のうちの一つだそうです。江戸時代には武具庫として使われていましたが、明治以降に軍隊が入ったときは被服倉庫として使われていたそうです。

橋爪門
ここを降りていくと、復元されたばかりの建物が見えました。いよいよ金沢城の中心部です。

美しい。これは橋爪門を外側(南東)から見たものです。中央の櫓は、橋爪門続櫓です。
そして三の丸へ行くと、さらに美しい橋爪門を見ることができます。


橋爪門は、枡形門でした。中に、またまたきれいな門がありました。


菱櫓(ひしやぐら)
そして、橋爪門を抜けて二の丸に入ると、二の丸の西側に五十間長屋とその北端に位置する菱櫓が見えました。

奥が、菱櫓です。手前の右側の入り口が五十間長屋への入り口です。入場料が300円で中の展示を見ることができます。

金沢城(3) 石川県金沢市

2015年06月24日 16時37分41秒 | 石川県
本丸跡


次の見学地は、本丸跡です。ここは、大学があったときも植物園でした。理学部の生物学科が確か管理していたように思います。たいへん珍しい生き物がいるとかで、教えてもらったこともありましたが、それが動物だったのか、植物だったのかさえ忘れてしまいました。
また、学生にとってここは、絶好のデートコースだったようです。私には、あまり関係がありませんでしたが。

鉄門(くろがねもん)
三十間長屋から本丸のほうに歩いていくと、鉄門がありました。本丸の虎口の一つです。鉄門、鉄を「くろがね」と読ませるものに、吉田城(愛知県豊橋市)がありました。吉田城の本丸の隅櫓の一つを鉄櫓ということで、復元されていました。くろがねということに何か意味があるのかなと思いました。

鉄門


鉄櫓(愛知県吉田城)

一応本丸への虎口なので、枡形になっていないかあたりを見てみましたが、その形跡はありませんでした。というより草木が深くて分かりませんでした。

戌亥櫓跡
鉄門からすぐ左に折れますと、戌亥櫓跡がありました。ここから金沢城跡の中心部がしっかり見渡すことが出来ました。


辰巳櫓跡
辰巳櫓跡からは、金沢市役所、金沢市街地を見渡すことが出来ました。


丑寅櫓跡
さらに北のほうに進むと、丑寅櫓跡がありました。ここからは兼六園がよく見えました。

金沢城(2) 石川県金沢市

2015年06月23日 15時17分12秒 | 石川県

さて、石垣の展示場の左のほうに坂がありました。大学があった頃は、「みやもり坂」と呼んでいたように思います。授業に遅れそうになった学生がこの坂を一気に駆け上がろうとしますが、なかなか上がりきれず、「心臓破りのみやもり坂」と呼ぶ学生もいました。

三十間長屋
この坂を上ると、法文学部があったのですが、そこに三十間長屋がありました。といっても、大学があったときから建っていたそうなので、私が知らないだけでした。

三十間長屋

三十間長屋には、おじさんが座っていて説明をしていただけました。「石落とし」を詳しく教えてくれました。


外から見ると・・・


まるで出窓です。今ならお花でも飾っておきたいようなかんじです。しかし、当時は石垣をよじ登ってくる兵士に石を落として進入を防ぐ大切な設備だったのですね。

強固な梁
さて、三十間長屋はその内部がすばらしいです。天井の梁が1本出なく、2本組み合わされて(つなぎ合わされて)いるのです。普通につなげば、すぐに外れたりしてしまうのでしょうが、ここの建造物は冬の雪にも耐えながら、建ち続けていました。


ここから外国船が見えた
なお、この三十間長屋は、幕末の頃、日本海を通る外国船を見張る役割もあったそうです。ただし、汽船なので、その煙を発見する役目だそうです。それにしても、ここから日本海が見えるなんてすごいですね。