愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

幡豆寺部城跡(1) 西尾市

2017年10月04日 14時04分40秒 | 西尾市
10月1日、西尾市の寺部城跡に行きました。

寺部城は、豊田市にもありますので、西尾市の寺部城は、幡豆寺部城とします。

現地案内板によれば、寺部城は、
「築城年代、築城者は不明ですが、永正11年(1514)、小笠原定政が早川三郎を敗って寺部城主となり以後小笠原氏(定正―広政―重広―信元―信重)の居城となりました。
 欠城(寺部城の西800メートル、磯城とも言われた)とともに、永禄の初めごろまでは今川氏に従い、以後家康に属して、家康の関東移封とともに天正18年(1590)小笠原氏も上総国に領地を賜り、関東に移りました。
 その後、江戸時代に入って、寺部城も自然に廃城になったものと思われます。」


小笠原と言えば、豊橋市の船形山城で登場した武将です。

参照 「船形山城址 豊橋市」

永禄11年(1568)徳川方の武将松平家忠と小笠原廣重が、武田軍への押さえとして、この船形山の砦を守り、小笠原廣重の息子小笠原信元もここを守ったそうです。小笠原廣重は、現地案内板の「重広」と同一人物です。また、現地案内板の中の「小笠原定政」と、その後の居城者「定正」はおそらく同一人物です。


寺部城遺構図(現地案内板)

寺部城跡全景(東側の西尾市役所支所より)


寺部城跡への登城口

寺部城跡は、西尾市幡豆公民館から下に降りて、すぐの道をまた西のほうに折れると左側にあります。

登城道は階段になって整備されていました。しかし、この道は本丸東側の大きな堀切の跡でした。

東側の堀切(登城道)

この登城道を東から南にぐるっと回りますと、腰曲輪や二の丸が見えてきます。

本丸南腰曲輪・二の丸

(つづく)
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源空院 西尾市

2017年04月14日 16時44分17秒 | 西尾市
浅井西城址を見学したついでに、松平康孝の菩提寺という源空院を訪ねました。


源空院山門

源空院は松平康孝の墓所であるばかりでなく、枝垂れさくらでも有名なようです。


源空院の枝垂れ桜 枝垂れ桜は3月下旬に咲くので、訪れた時はかなり花は散っていて、若葉が出ていました。



松平康孝の墓所であることを表示する石碑


松平康孝の墓(左側)右側は初代住職の一雲の墓です。松平康孝がこの源空院を開いたとき、一雲という高僧を招致したそうです。ちなみに松平康孝の法名は「宝琳院礼翁善忠」というそうです。寺内の案内板に説明してあったので、ようやく松平康孝の墓を見つけることができました。

改めて言うまでもないのですが、昔の武家は、菩提寺をだいたいは持っていることが分かりました。今NHKで放映している井伊氏は龍潭寺、松平太郎左衛門家は高月院、織田家は万松寺等々、セットになっている場合が多いことが分かりました。

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浅井西城址 西尾市

2017年04月12日 13時58分48秒 | 西尾市
まるで梅雨のような雨が続いています。おかげでなかなか史跡めぐりができません。
しかし、雨の合間をぬってでかけました。今回は、西尾市です。

三河国二葉松に、以下のように説明があります。
幡豆郡 浅井村古城 在二箇所清康御弟松平十郎三郎康孝西古城
             大津土左衛門東古城也


浅井城は東西2か所あり、西の方に松平康孝(松平清康の弟)、東の方は大津土左衛門という武将の城だったようです。


松平氏系図

ネットで調べますと東古城の方は、どこか特定できないとありました。ので、今回は西古城の方へ行きました。

浅井西城址の位置(地理院地図で作成しました)

名古屋方面から行く場合は、国道23号線をひたすら西尾方面に走り、中原インターを降りて左折(岡崎方面)します。次に「志籠谷(しこや)」交差点を左折して県道479号線に入ります。しばらく行くと「西浅井町」の交差点に出るので、左折します。2本目の道を右折すると「大和興業」という会社があります。そこが浅井西城です。

「大和興業」

まずは、左手に回ってみました。すると、階段がありました。立ち入り禁止の為に中に入ることはできませんでしたが、周りが土塁で囲まれ、その中に建物があることが分かりました。

土塁の中の建物 

建物の屋根が見えますが、下が見えません。ということは、中がくぼんでいるということで、周りを土塁で囲まれていることが分かりました。

さらに進んで行きますと城の北側に堀跡がありました。水堀のようです。それとも後で水が溜まったのでしょうか。

堀跡

さらに北に回ってみると堀の跡が続き、高い土塁が見えました。

北側堀跡と土塁

土塁の上に見える建物は赤い鳥居が一緒に見えましたので、お社でしょうか。

これ以上は北側は進めなくなったので、今度は城の東側に回りました。

城の東側

城の東側にも土塁らしきものがあり、高くなっていました。そして、東側から北側に回りますと、立派な土塁跡を見ることができました。

城北側の土塁跡 
途中切り込みがあり、「曲輪」の中に入れるようになっていました。後世に造られたのでしょうか?それにしても立派な土塁でした。

なお、この城を航空写真で調べたところ、城跡であることがすぐに分かるようになっていました。

浅井西城址の航空写真(グーグル地図で作成しました)

地図には「古城」という地名もあります。案内板ではそのあたりに詰めの城があったのだろうとしています。浅井西城は居城であったとしています。
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城下町西尾市(3) 西尾市

2016年11月03日 07時05分06秒 | 西尾市
総構えの土塁
さて、追羽門跡の次は、西の方に回りました。総構えの土塁があるというのです。ということは、西尾市も小田原市のように総構えの城下町だったということです。

弥生町というところにその土塁がありました。

土塁の跡を示す石の標識


土塁

右側の道は堀の跡だそうです。そういえば、今まで門の跡を見てきましたが、全て門には土塁と堀が描かれていました。西尾城は総構えの城だったことが絵図でも分かりました。

大手門跡
さて、土塁跡から東南に道を進んで行きますと、追羽門の南に大手門跡があります。

大手門跡。左の人形はなんでしょうか。よく分かりませんでした。


大手門絵図

絵図を見ると、先ほどの追羽門よりさらに厳格になっていることが分かります。手前の門と奥の立派な門の間が枡形になっています。外枡形です。奥に見える門はかなり立派です。手前の門の脇には、左側に小さな建物が見えます。中にはなにか御触書みたいなものも見えます。宿場町の高札のようなものでしょうか。ここが西尾城の正面であることが分かります。

なお、一の門と二の門は同じ向きですが、まっすぐではなく、微妙にずれていることが分かります。これは中を見通せないようにさせるためだそうです。その名残が現在の道になって残っているそうです。

ヤフー航空写真から

大手門跡の石碑がある交差点から南へ進む道があり、それが西尾城へとのびていた大手道です。交差点から少し西の方に道がずれていることを確認することができます。

大手門跡の空き地


大手門の二つの門がずれていることの名残。道が右手(西)に少しずれています。

ということで、ぐるっと西尾の市内を門跡を中心に回ってきました。絵図があると、想像が膨らみ、とてもよかったと思いました。また、ところどころに土塁の跡などもあり、城下町西尾市の様子を堪能することができました。
おしまい
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城下町西尾市(2) 西尾市

2016年11月02日 22時08分44秒 | 西尾市
天王門跡
丁田門からぐっと北の方に足を延ばしますと、天王門跡があります。天王門はマップでは街の北東にあり、「東海道藤川宿から小島橋を渡り西尾郷へ通じる主要道路が城下に入り、その入口に位置する門」(現地案内)だそうです。

天王門跡

追羽門跡
そこから進路を西の方に向けますと、追羽門跡があります。

追羽門跡

説明や絵図では「追羽」門ですが、ネットで「追払」門と表示しているものもありました。城の正面に「追手門」、城下の北端に「追払門」。まさにぴったりの名前だなあと感心しました。

絵図を見ると今までの門とは少し違っていました。

追羽門の絵図

今までの門のように簡単なつくりではありません。二階建てです。しかも二階には狭間があります。ここから侵入してくる敵を攻撃できるようになっています。扉も頑丈そうです。門の両側には柵があります。両側の土塁からの侵入を防ぐためだそうです。

さらに奥の方には二の門らしき門が見えます。二の門は一の門と直角に曲がっています。「西尾城物語③」によれば、枡形の門だったそうです。かなり厳重な門です。
二の門の奥には屋根が見えます。武家屋敷だそうです。この門を警護する武士が居住地を兼ねて詰めていたのでしょうか。
想像が膨らみます。
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