愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

八ツ面山雲母坑址 西尾市

2013年09月08日 07時36分21秒 | 西尾市
 自分で勝手に問題にした八ツ面山に行きました。

八ツ面山は、前方後円墳か
 八ツ面山を地図で見ると大きく二つに分かてているのが分かります。西側が男山、東側が女山というそうです。つまり、男山は険しく、女山はなだらかなわけです。しかし、よく見るとこれはまるで前方後円墳のようでもあります。女山が前方で、男山が後円です。ますます疑問が膨らんでいきました。

和銅時代からある雲母坑
 さて、タイトルの「雲母坑址」ですが、男山の北側の方にありました。


雲母坑を埋め立てたことをあらわす碑


雲母坑についての案内板


1基残したという雲母坑?(看板のすぐ左にありましたので、雲母坑の址だと思います)
 
 驚きは、この雲母坑が713年(和銅6年)から存在していること、さらに事故のためにこの穴を埋めたときにその数が642箇所もあったということでした。

なぜ荒川義広は八ツ面山に城を築かなかったか
 荒川義広がこの八ツ面山に城を築かなかったのは、この雲母坑のためではないかと想像しました。まず、ここに城を築けば、坑夫が自由に出入りできず、雲母坑での採掘に何らかの支障が出ます。そうすれば雲母での彼の収入が減ってしまいます。もったいない。つぎに、昭和の時代に642箇所もの穴があったということは、戦国時代、荒川氏の時代には、半分と見積もっても300個近くの穴があって、城を築けるような山ではなかったのではないかということです。あぶない。

八ツ面山から安城、岡崎、幸田が一望
 男山の展望台からぐるっと見渡しましたが、素晴らしい眺望でした。ここからは、安城、岡崎、幸田が一望の下に見ることができました。ただ天気が悪くて遠くまで見えなかったのが残念です。北東の天井に案内板がありました。その案内板に野寺本證寺が記されていました。

野寺本證寺を記す案内板

二つある久麻久神社
 ふもとには久麻久神社がありました。不思議なことに、荒川義広の墓のあった真成寺の近くに同じ名前の神社があります。

八ツ面山にある久麻久神社


真成寺の近くの久麻久神社

最後、この山は野良猫の天国でした。

女山の駐車場で休んでいる白い野良猫

荒川義広の墓 西尾市

2013年09月02日 19時06分10秒 | 西尾市
 松平記で、吉良義昭の次に反家康の武将として荒川義広が述べられています。
荒川義広とは
 荒川義広は、もともと吉良持清の子として生まれた吉良氏の一員です。しかし、吉良氏は兄の持広が継いだために、荒川家を起こしたといわれています。
 不思議な武将で、家康が東条義昭を攻めていたときには家康の側について、その功績で家康の腹違いの娘市場姫を娶っています。しかし、一向一揆が起こると家康に反旗を翻し、吉良義昭と一揆側について戦っています。その辺の事情が今ひとつ分かりません。
八ツ面城はどうして八ツ面山にないのか
 荒川氏は、西尾の八ツ面に城を構えます。八ツ面城です。現地に行きましたが、やはり痕跡は分かりませんでした。
八ツ面小学校がお城の跡地らしいのですが、確かに一段と高いところにあり、東側には田んぼが広がっていて見晴らしはよかったです。ここに城があっても悪くはありません。

八ツ面の集落 右側が小高くなっていることが分かります。


八ツ面小学校 小高い丘の上に立っていました。

 しかし、実はこの八ツ面には、後ろに八面山という立派な丘がありました。


 荒川氏は、どうして八ツ面山に城を造らなかったのだろうと思いました。もしかしたら、八ツ面山に城があったのかもしれません。今度この山にぜひ登ってみたいと思いました。

荒川義広の墓
いずれにしても、荒川氏は家康に敗れ、国外追放となったようです。しかし、その荒川氏の墓があるということなので、近くの「真成寺」というお寺を訪れました。真成寺は浄土真宗ではありません。曹洞宗でした。


 真成寺の裏手にまわるとお墓がありました。


そして「施主 荒川義尚」という字を見つけました。荒川義尚とは誰なのでしょうか。


また、家康の腹違いの妹市場姫はどうなったのでしょうか。
いろんな疑問がいっぱい出てきました。

東条城 西尾市

2013年09月01日 19時54分46秒 | 西尾市
 松平記に反家康の武将の一番手に上がったのは、吉良義昭です。
 吉良義昭、そして吉良氏とはどんな武将なのでしょうか。

名門吉良氏
 吉良氏は大きく3つの流れがあるそうです。三河、関東、土佐の3つの地域です。もちろん吉良義昭は三河の系統の吉良氏になります。
 吉良氏の祖先は足利義氏だそうです。足利義氏は、鎌倉幕府の御家人で北条義時や泰時を助けていたそうです。義氏の母は北条時政の娘で、鎌倉幕府と大変強いつながりを持っていた人です。
 その足利義氏の長男の長氏が、この吉良荘をおさめるときに吉良の姓を名乗ったそうです。それが吉良家の始まりだそうです。


 東条城の案内板 ただし、永禄4年藤波畷の戦いで吉良義昭が家康に負けたことで、東条吉良氏が滅亡したとありますが、実際は永禄6年の三河一向一揆で、吉良義昭は家康と再び戦っているので、永禄4年の段階で滅亡したというのは早すぎだと思います。

西条吉良、東条吉良に分裂
 南北朝の時には吉良満義(吉良長氏の4代後)とその息子である吉良満貞が南朝あるいは北朝の武将として戦っている間に、満義の四男尊義が東条吉良として自立するという事件が起こりました。
 以後、満貞の西条(西尾)の吉良氏と尊義の東条の吉良氏が争うという構図ができたようです。応仁の乱でもこの対立は継続したようです。


城の入り口に設けられた門

今川氏、松平氏との戦い
 一時両家は和解しましたが、戦国武将としての力は弱まっていて、東のほうから今川氏が攻めてくると、軍門に下るしかなかったようです。西条の吉良義安は駿府にとらわれ、義安の弟、吉良義昭が今川氏の庇護の下に東西の吉良を統一しました。
 ところが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、吉良義昭は、今度は三河を統一しようとする家康と戦うことになりました。しかし、善明堤の戦いや藤波畷の戦いに敗れ、家康に降参しました。
 そして三河一向一揆が起こると、義昭は家康打倒のため一揆側について、再び家康と戦うことになったのです。


虎口


物見櫓と虎口

吉野ヶ里の櫓と同じ
 東条城を見たとき、とても驚きました。城といえば天守閣があって、石垣があって・・・こうしたイメージは壊れました。(石垣については、室町時代まではなくて、土塁だったということを最近知りました。)今回、東条城を見て、天守閣のイメージは崩れました。


物見櫓


 これは、九州の吉野ヶ里遺跡の物見櫓です。弥生時代の遺跡です。ちょうど人間も写っているので、高さも比べられますが、ほとんど同じです。弥生時代から、鎌倉時代(この櫓は鎌倉時代の一遍上人聖絵を元にして再建されたそうです)まで砦(特に櫓)の構造はほとんど変わっていないことが分かり、全くびっくりでした。

岩瀬文庫 西尾市

2013年08月29日 19時10分53秒 | 西尾市
 以前より気になっていた西尾市の岩瀬文庫というところへ行ってみました。三河の有名な百姓一揆「加茂一揆」について書いたという渡辺政香「鴨の騒立」を探していたところ、この岩瀬文庫にあるということが分かったからです。

岩瀬文庫正面

岩瀬文庫とは
 西尾市立図書館のすぐ横にありました。岩瀬文庫は、西尾出身の実業家・岩瀬弥助の手によって、1908年(明治41年)5月6日に私立図書館として開館したそうです。1955年(昭和30年)に西尾市が蔵書を全て購入し、以後西尾市の施設となりました。現在蔵書は、弥助によって集められた古書を中心として約8万冊あるそうです。

旅への誘い
中に入ると、1階がギャラリー、2階が展示室、閲覧室になっていました。1階には染物のようなものが展示されていました。2階の展示コーナーでは「旅への誘い」を特集していて、江戸時代に書かれた「地誌」や「図会」などが選んで陳列してありました。
 「東海道名所記」があったので、以前本の中で見た「勝鬘寺」の絵がないかちょっと調べてみました。「池鯉鮒」や「八橋」の絵はありましたが、残念ながら勝鬘寺の絵はありませんでした。江戸時代に書かれたと思われる「図鑑」も展示してありましたが、その色の美しさに圧倒されました。百年以上も経つと思われるのに、鮮やかな色彩でした。さらに、図鑑といっても今日のように写真ではなく、手で描いたものなのに、本物のように詳しく描かれていて、これにも驚きました。

古書の一大宝庫
 しかも、置いてあった図書目録を見ると、それだけで一冊の分厚い本になっていて、江戸時代から明治・大正にかけてのいろんな本が網羅されていてすごいと思いました。渡辺政香の本の名前も見つけました。

黄金堤 西尾市

2013年07月22日 06時27分30秒 | 西尾市
吉良上野介は善政をした?
7月14日、深溝城の次に「黄金堤」を訪れました。

この堤は、忠臣蔵の敵役で有名な吉良上野介(吉良義央)が作ったと案内板には書かれていました。

案内板の説明
史跡 黄金堤
吉良さん(吉良上野介義央)の善政の最たるものは、この黄金堤の築堤である。
当時、増水のたびに隣藩上流平野の水がこの細い谷を抜けて南下し、今の吉良町の新田地帯はそのつど大水に悩まされた。
吉良さんは、この山間の約180メートルを堤防でふさぎ、下流八千石の田園を水害から救った。
 当然、隣接西尾藩はこの工事に強く反対したが、吉良さんは、決壊したら二度と築堤しないと、誠意をつくして約束したという。
 領内老若男女こぞって工事に参加し、一晩で完成したと伝える。ひき続き関連の用排水路が整備された。
 黄金堤の美称は、吉良さんへの尽きない思慕である。
西尾市教育委員会




黄金堤の石碑と吉良義央の像

吉良上野介の汚名を晴らしたい
「吉良さん」と呼んだり、「老若男女こぞって参加し」とか、西尾市教育委員会(旧吉良町教育委員会)は、吉良上野介を賞賛してることが分かります。しかし、上野介はほとんど江戸にいて、領地にはあまり足を運んでいないという説もあります。真偽のほどは分かりませんが、吉良上野介を領主に仰ぐ吉良町としては、忠臣蔵の汚名を少しでも晴らしたいと思うのは間違いないと思います。