愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小松寺砦 小牧市

2019年05月22日 05時24分25秒 | 小牧市
小松寺砦
2つ目の砦は、小松寺砦です。ここには、丹羽長秀、三好秀次(後の関白豊臣秀次)が守っていたそうです。三好秀次は、この後、三河中入り作戦(小牧に籠っている家康の本拠地である岡崎を奇襲するという豊臣側の作戦)で総大将となりましたが、失敗してしまいます。小松寺砦も戦が終わった後廃城になりました。


小松寺
この石の標識の後ろに小松寺というお寺があると思います。私は、すぐに高いところに行ってしまったので、確認できていません。

高いところから見ると小牧山城がやはりはっきりと見ることができました。

小松寺砦から小牧山を見る

しかし、小松寺砦の現状はお墓でした。

小松寺砦の現状

岩崎山砦 小牧市

2019年05月21日 18時28分03秒 | 小牧市
しばらく三河の山城が続いていましたので、尾張の方も行って見ました。小牧長久手の戦いでの砦です。この戦いは、豊臣秀吉と徳川家康が直接戦った戦で、あまり取り上げられませんが、結構大きな戦いだったのです。
今回訪ねたのは、小牧山城にたてこもる家康に対してそれに対峙するように秀吉が築いた砦群の一部です。
岩崎山砦、小松寺砦、久保山砦の3つを見学しました。

3つの砦と小牧山城(Yahoo地図より作成しました)
左下に小牧城があります。家康が籠った城です。その北東に3つの砦があります。

岩崎山砦
この砦を守っていたのは、稲葉一鉄父子と四千の兵だったそうです。実際に家康との戦いがあったかどうかは分かりませんが、秀吉と織田信雄が講和した後に廃城となったそうです。

住宅の間より見える岩崎山

現在の岩崎山には、観音堂というお寺と熊野神社があります。

熊野神社

この砦から小牧山城が手に取るように見ることができました。

岩崎山から見た小牧山

さて、この岩崎山で注目すべきは、岩でした。この山の岩は名古屋城築城の際使われたそうです。ネットの情報では、信長の小牧山城の築城の際にもここの岩が使われたそうです。

名古屋城築城で使用されたことを示す小牧市の案内板


名古屋城築城の際の残石で作られた石垣 上は公園です。

この山は花崗岩の山地で、地表に突出しているそうです。画像のような奇岩もあるそうです。

奇岩 五枚岩

また、岩を切り取った証拠の矢穴も残っているそうです。

矢穴の跡

話は横道にそれてしまいましたが、ここが石垣の製造に欠かせない場所であることを初めて知りました。
愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり

小牧市歴史講座 小牧市

2017年11月12日 06時30分52秒 | 小牧市
信長と家康の同盟
先日小牧市に住む友人の方に小牧市で歴史講座をやっているという話を聞き、早速聞きに行きました。

歴史講座の案内チラシ

テーマは織田信長です。小牧市には小牧山城があり、織田信長にゆかりがある市です。そこで、織田信長に関する歴史講座をやって、市民に関心を持ってもらおうという企画のようです。主催は小牧市教育委員会です。

第1回の今日は、信長と徳川家康です。信長と家康と言えば、二人の同盟についてです。この同盟関係がどのようなものであったか。信長と家康との間で交わされた手紙に基づいて、説明がなされました。

講師は平野明夫氏で、「三河松平一族」の著者です。主に徳川家康の研究をしておられます。


手紙の読み方

この手紙は、永禄12年(1569)に織田信長が徳川家康に差し出したものです。手紙は、「書き出し」(手紙のはじめのことば)「書き止め」(終わりのことば)「宛所」(相手の名前などを書いたところ)「脇付」(相手に対して最後に述べる言葉)などで構成されていて、それぞれに相手と自分との関係を表す言葉や位置などがきめられているそうです。

書き出し 「芳札」 相手を目上としている
書き止め 「恐々謹言」相手を目上としている(ただし字が崩れ草書体だと同等としている)
宛所 日付と宛名が同じ高さになっているときは、同等としている。
脇付 「御報」相手を同等としている

これらから永禄12年の段階で信長と家康は同等の関係であったことが分かると言います。
こうして信長から家康への手紙を調べていくと、二人の関係に変化があると言います。

永禄12年(1569)同等
元亀2年(1571)同等
元亀3年(1572)同等
天正元年(1573)同等
天正5年(1577)目下
天正6年(1578)目下
天正7年(1579)目下
天正9年(1581)目下

天正元年から天正5年の間に二人の関係は同等から、目上、目下の関係になったと言います。

一方、家康から信長への手紙は、家康がどんどんへりくだっていきます。
天正2年(1574)目上
天正3年(1575)目上
天正9年(1581)直接信長に出さずに家臣に送り、披露してほしいという形式 相手を最上級に持ち上げている

この変化の契機は、信長による将軍義昭の追放だそうです。というのは、同等関係であったときは、天皇や将軍の下で、対等であったようで、徳川家康は、将軍義昭の命令であれば、信長の意思より義昭を優先することもあったそうです。しかし、天正元年(1573)義昭が追放されたことで、対等であることの箍が外され、信長が家康に対して優位となり、天正9年頃には、家康は信長の臣下となっていたようです。天正10年に武田氏が滅亡し、駿河国が家康の領地となりますが、それは信長から与えられたものだったようです。

話しは2時から3時半まででしたが、時間ぴったりに終わり、大変好感が持てました。次回も聞きたいと思いました。

小牧山城(3) 小牧市

2015年10月05日 10時58分48秒 | 小牧市
大手道
ぐるっとまわって大手道まで来ました。

大手道 中間から下のほう。発掘の結果、これよりも広く、幅5,4メートルあったことが分かったそうです。山麓より途中まで直線的に伸びています。

家臣の屋敷跡?
大手道の右側(東側)に広場がありました。何かイベントのようで人が集まっていました。この広場は、信長の家臣の屋敷跡ではないかと思います。「信長の城」では、山麓の大手道をわざと直線にしたといっています。直線にして防御性を弱くしたというのです。そして大手道が主郭に続く道は曲がりくねらせて、防御性を高めています。このことは、「個々の家臣の屋敷に独立した防御機能を発揮させないという、信長の強い意思の表れ」といいます。また、家臣の屋敷跡の堀や塀は山側に向かっては開かれていて、防御性を弱くしているといいます。

家臣の屋敷跡らしい広場

主郭への道
大手道はやがて細い曲がりくねった道になりました。

大手道2 主郭に繋がる大手道の入り口

主郭にたどり着く直前に曲輪らしいものが見えました。

主郭の直下ですから、守衛の曲輪なのかなと思いました。

主郭につきました。主郭は工事中です。小牧市のホームページによれば、主郭の虎口付近と東の虎口付近の発掘調査をしているとのことでした。また、行ってみて分かったことですが、資料館が10月15日までリニューアルのため閉館していました。残念。

主郭への虎口。奥に工事中の柵が見えます。

埋め戻した石垣
主郭では3段になっていたという石垣、信長が近くの山から運ばせたという花崗岩を見たかったのですが、ほとんどが工事中で見れませんでした。

主郭下の石垣の跡。もう少し発掘されているのですが、保存のために埋め戻したそうです。埋め戻すのは、保存のために致し方がありませんが、見学者が小牧山城の石垣を何らかの形で見ることができるようになっているとありがたいと思いました。


信長が運んだという花崗岩が台座になっている像。ブルーシートで覆われていて見えませんでした。

山麓の信長館跡
仕方なく下山し、信長館跡を見学しました。

この一帯だけ、周りに土塁が巡らされ、きれいになっていました。「信長の城」によれば、他の家臣と思われる曲輪は、山に向かっての堀や土塁などの防御装備が無いのですが、この曲輪だけは、四方を堀と土塁が巡らされているので、ほかの曲輪とは違い、信長の山麓の館ではないかといっていました。

初めて小牧山城を見学したのは、2013年でした。あの時は、「石垣の城の始まりとしての小牧山城」ということで認識していましたが、それだけではなく、家臣に対して絶対的な権力を持つ武将としての信長が築いた城ということが分かりました。

小牧山城(2) 小牧市

2015年10月04日 19時28分52秒 | 小牧市

現地小牧山案内板 赤い文字や赤い囲み、土塁跡、大手道は書き入れました。

以前小牧山城を訪れたことがありますので、タイトルを(2)としました。
小牧城 小牧市

小牧山城をもう一度
9月13日(日)小牧山城にて発掘についての現地説明会があり、参加する予定でしたが、私用で参加することができませんでした。そこで、改めて小牧山城を見学することにしました。
見学の動機にはもう一つありました。たまたま書店で千田嘉博「信長の城」を見つけ、読んでいたら、今までの小牧山城の自分の認識とは全然ちがうことが分かり、もう一度行ってみる価値があると思ったからです。

駐車場は「小牧山北駐車場」です。2時間無料で超過しても30分ごとに100円なので、大変割安な駐車場です。(実際は2時間以内だったので、無料でした)

家康が築いた土塁
駐車場から山に入るとちょうど北の土塁の切れ目から入ることになり、そこには土塁の断面が展示してありました。この土塁は「小牧・長久手の戦い」(豊臣秀吉と徳川家康の戦い)の際に徳川家康が築いたものだそうです。

土塁断面

小牧山の麓は曲輪群
そして左右には曲輪群が広がっていました。(といってもただの平面ですが)曲輪の中にどんな建物があったかは、削り取られていて、分からないそうですが、曲輪の周りの溝(堀)部分が遺構として残っていたので、曲輪の大きさ、形等は分かったそうです。

小牧山東側曲輪跡群。画像の左側は土塁、右側は小牧山です。

しばらく歩くと井戸の跡がありました。今はコンクリートで丸く囲ってあり、その周りを四角くして井戸らしく見せていました。

小牧山の外側は土塁で囲われていました。

搦め手口
小牧山を北の方から入り、左回りに巡っていきますと、搦め手の口がありました。

搦め手口 道が左右に分かれていて、まっすぐには進入できないようになっていました。