愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

蔵屋敷 新城市

2019年05月01日 05時27分34秒 | 新城市
石橋城から国道301号線を北東に進むと蔵屋敷の場所に行きます。しかし、そこには畑しかありませんでした。

蔵屋敷のあった場所

向かい側の畑に人がいましたので、尋ねてみると「確かにここは蔵屋敷というよ。・・・もう少し行くと何か塚があって、そこに看板があるよ。」と教えていただけました。

この畑の南側に「倉屋敷」の表示がありました。

倉屋敷の標識

しかし、遺構はなかったので、地域の方に教えていただいた塚を探すことにしました。すると、蔵屋敷の交差点から50mぐらい言ったところに確かに塚がありました。その名も「武士塚」です。

武士塚の案内板

これによると、この塚は亀山城主2代目奥平貞久の墳墓ということでした。

「山住大神」と書かれた墳墓石

石に「山住大神」と書かれていましたが、奥平氏とどんな関係があるのか調べても分かりませんでした。

春の陽気に誘われてシマヘビが出てきました。コワイ~。

シマヘビ

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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石橋城(2) 新城市

2019年04月30日 05時00分45秒 | 新城市

入ってすぐに目に入る土塁 奥の木の間に見えます。

この土塁は2メートル以上あり、大変見ごたえのある土塁でした。昔の高さを保っているのだろうと思いました。山の頂上部分の土塁や放置したある土塁は低くなっていますが、この土塁はかなり高かったので、お寺の方が代々補修して保全してきたからなのだろうと思いました。


北側、お寺の建物の裏側の土塁 建物の屋根まで土塁が届いています。

この土塁の外側は、これまた立派な堀になっていました。

土塁の外側の堀

たまたまお寺の人がいらっしゃったので、石橋奥平氏の石祠を教えていただきました。

石橋奥平氏の石祠

亀山城の目と鼻の先でこんな一族の血なまぐさい抗争があったとは全然知りませんでした。

石橋城 おしまい

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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石橋城(1) 新城市

2019年04月29日 06時06分07秒 | 新城市
4月28日、新城市の石橋城に行きました。石橋城のほかにネットで調べたところ、いろいろな遺構が残っているようなので、ついでに回ってみました。

亀山城付近の遺構(Yahoo地図より作成) 

亀山城のすぐ西に石橋城、北には蔵屋敷、北東に姫屋敷、南東に馬呂遺構というそれぞれ遺構が残っているようです。(ネット「城郭放浪記」より)

亀山城は以前に訪れたことがあります。
亀山城 新城市

石橋城は現在お寺になっています。「石橋山慈昌院」というそうです。そのいわれが観光案内にありました。

観光案内版

石橋城は、奥平2代貞久の二男、弾正久勝(だんじょうひさかつ)が最初の城主で、近辺の地名「石橋」を称し、3代貞昌(さだまさ)の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌(だんじょうしげまさ)は、天文6年(1537)9月、主君への謀反が露見し、4代貞勝(さだかつ)の命を受けた土佐定勝(さだかつ)に、屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも、西方土塁の腰に石祠を確認することができる。後年になり、当山の第2世徳岩明和尚(とくがんみょうおしょう)が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。  作手村


一族の内部抗争により、石橋奥平が宗家の奥平氏に滅ぼされたようです。何とも痛ましいことです。


石橋城(慈昌院)の入口 幟には「南無釈迦牟尼仏」とあります。臨済宗です。


石橋城縄張り図(現地案内板より作成しました、黄色い部分)

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり
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法性寺(ほっしょうじ) 新城市

2018年08月27日 11時41分49秒 | 新城市
大野田城に行ったついでに、野田城と法性寺にも行きました。法性寺は、野田城のすぐ隣にある曹洞宗のお寺です。ここは、武田信玄が野田城から鉄砲で撃たれた場所があるということです。


法性寺の入り口 この入り口の右側が野田城です。

鉄砲で撃たれたという場所は、ここを入ってすぐに看板があるので、それに従って左の坂を登っていきますと、あります。


武田信玄狙撃の場

小さな祠が2つほどありました。坂を登って行ったところにあったので、野田城とほぼ同じぐらいの高さのところでした。野田城からの距離は、だいたい80mぐらいでしょうか。当時の火縄銃の飛距離がだいたい100mぐらいですから撃って撃てなかったわけではなさそうです。

ただし、それが当たったかどうか、さらに当たったことが原因で死んだかどうかは、わかりません。

ただ歴史のロマンとしては、面白い伝説です。

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大野田城(3) 新城市

2018年08月25日 06時57分28秒 | 新城市

北側の空堀(堀切)
河岸段丘の端に当たるところに城があり、丘陵を遮断していました。


北側の土塁。向こう側は堀切になっています。


土塁の北側の切岸

ということで、東半分は中市場池として壊れてしまっていますが、西半分だけでも十分遺構が残る立派な城址でした。

ここから南には、吉祥山が鮮やかに見えていました。

吉祥山

終わり
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