愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

長比(たけくらべ)城(2) 滋賀県米原市

2021年03月26日 07時23分27秒 | 滋賀県
須川山砦とは
しばらく登っていくと、「須川山砦跡」の看板が見えます。ここに来るまで、知らないお城でした。現地にあったパンフレットでは、以下のように説明してありました。

現地案内パンフレット

「須川山砦の築城年代は不明ですが、長比城と立地が近いことや類似する城郭構造を持つことから同時期に築かれたのではないかと考えられます。」(「長比城・須川山砦の歴史」より)
「須川山砦は比較的小規模ですが、高い土塁を巡らせて、北側と南側に外枡形状の虎口を設けています。また北側の尾根には畝状竪堀群を備えています。」(「長比城・須川山砦のみどころ」より)



須川山砦概要図(作図高田徹氏「現地案内パンフレット」に加筆)

竪堀

須川山砦東に延びる竪堀


須川山砦北の畝状竪堀(かなり堀が浅くなっていて、図では3本ありますが、判断が難しかったです)

枡形虎口

須川山砦北の外枡形虎口(内側の入口)
この桝形も土塁が低くなっていました。虎口の外側に土塁が築かれていて、外枡形をさらに守る仕組みになっていました。


須川山砦南側の外枡形虎口(右側のかぎ状になっている部分が土塁で、左側にも土塁があります。間が通路になっています。土塁がかなり低くなっています)


須川山砦の石碑

須川山砦は、北に特に畝状竪堀や枡形虎口をつくり、守りを厳重にしていました。ということは、織田が入った後に、浅井(小谷山)に向けて造り直したのかも知れないと思いました。また、曲輪を囲む土塁は、結構高く周りを巡っていました。

つづく

長比(たけくらべ)城(1) 滋賀県米原市

2021年03月25日 05時32分05秒 | 滋賀県

長比西城虎口

信長公記
信長公記の一節にあって、気になっていた城に登りました。

信長が越前攻めに向かっているところ、同盟関係にあった北近江の浅井長政が寝返ったという知らせを聞き、「是非に及ばず」と、命からがら京に逃げ帰ったおよそ2か月後、浅井長政は、信長の攻撃をおさえるため、東山道(中山道)が見下ろせる山に砦を築きます。それがたけくらべ城・かりやす城です。

 さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を備へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
 六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀叛の由承り、たけくらべ・かりやす、取る物も取り敢えず退散なり。たけくらべに一両日御逗留ばさる。(桑田忠親校注「信長公記」新人物往来社)


しかし、あっさりと城将堀・樋口が信長に寝返ってしまい、信長はそれを機に浅井を攻め、いわゆる姉川の戦いになりました。
かりやす城とは、上平寺城のことだそうです。上平寺城は、以前「若越城の会」で連れて行っていただきました。(上平寺城 滋賀県米原市

中学校校歌
長比(たけくらべ)で、気になっていた理由は、もう一つあって、「たけくらべ」ということばです。私の出身中学校の校歌の2番に「なにをささやく たけくらべ もえたつ夢も おおらかに たくましく・・・」という歌詞があります。この「たけくらべ」というのは、「丈競」と書きます。中学校から見える「丈競山」のことを意味しています。そういう意味でも気になっていた山城でした。

アクセス
さて、長比城は高速で行く時は「関ヶ原インターで」で降り、国道21号線を西に進み、「柏原東」交差点で右に折れて旧中山道に出ます。旧中山道を東に進むと、左側に鳥居が見え、「神明神社参道」の標識があります。その鳥居の東隣に細い道があり、脇に「長比城跡登り口」と書いた標識が建っています。この道を登っていくと、小さな駐車場(数台)があり、そこに車を停めて、城に登ることができます。
また、駐車場と登り口との間にパンフレットの入った箱があり、そこに「長比城、須川山砦トレッキングマップ」という資料が入っていました。

野瀬山登山

長比城登城口(看板は「野瀬山登山口」となっています)

登り始めると、左手に柏原の街並みが見えます。

柏原の街並み

つづく

横山城(3) 滋賀県長浜市

2020年11月05日 08時39分55秒 | 滋賀県
先回の横山城の見学では、色々ありましたので、もう一度訪ねてみることにしました。前回は、東側の大原観音寺から登りましたが、西側からも登り口があることを、その時に見つけました。

横山城西側入口(日吉神社)

日吉神社から登ると、途中一町(約100m)ごとに「あと〇〇町」という道標があり、とても励まされました。

登城者を励ます道標

道標を見ながらずんずん登っていきますと、約40分ぐらいで城の遺構に出会いました。西側の虎口です。

西側虎口

さらに、進んで行きますと、二重堀切になります。これはすごかったです。

二重堀切
写真にすると、木の葉に隠れて、何が何だかよく分かりません。実際に見ると、かなり迫力があります。一筋の堀切ではなく、二重にしたことで防御力はかなり高まったと思います。愛知県では見られない防御施設でした。

この後、曲輪を抜けて、北城にたどり着くことができました。西側登城コース、二重堀切を見れてよかったです。

石田三成ゆかりの地 滋賀県長浜市石田町

2020年10月23日 09時12分00秒 | 滋賀県
横山城は道を間違えて、延々と北上しましたが、疲れてきましたので、途中で降り、山の西側に出ました。出た集落は、垣籠(かいごめ)町でした。このあたりは、用水の水がとてもきれいで、ウグイの子どもが用水に群れて泳いでいました。
しばらく南下していますと、堀部という集落に入りました。すると「石田大師堂」というお堂がありました。もう、この辺から石田三成の雰囲気が出てきていました。向かいの柱には、直江兼続の説明板がありました。

石田大師堂

直江兼続の説明柱

この辺りでは、石田町だけでなく、近隣の集落も石田三成の顕彰に参加しているようです。

いよいよ石田町です。ここが、石田三成の生誕地だそうです。石田会館で学習しようと意気込んで入口まで行きましたが、「コロナのため休館」ということでした。二つ目の失敗です。もっと下調べをしっかりしなくては・・・
しようがないので、会館の外にあった顕彰碑を見て帰ることにしました。

石田会館


石田三成顕彰碑

横山城(2) 滋賀県長浜市

2020年10月22日 07時59分39秒 | 滋賀県
曲輪の周りには土塁の跡が見受けられました。

曲輪南側の土塁跡

そして、北城へ通じる道の始まりに井戸跡がありました。安全のため、柵で囲ってありました。よっぽど深い井戸なのでしょう。

井戸跡

また井戸のすぐ近くから北東方向に大きな竪堀がありました。

竪堀

南城から北城へは少し登りになっていました。北城が横山城で一番高い所になると思います。312mです。

北城から伊吹山を見る

この眺めは壮大でした。伊吹山と横山の間の集落も見え、最高でした。また、西の方には長浜市の町並みが見えました。

北城から西を見る

このあと大失敗で西側の道に入るべきところを北側の道に行ってしまい、南西側の曲輪や堀切を見ることができませんでした。残念でした。

横山城 おしまい