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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

黍生城(2) 豊田市

2019年04月23日 05時45分07秒 | 豊田市
1時間ほどかかって、やっと頂上にたどり着きました。

黍生山頂上

天気が良かったこともあり、ここからの眺望は抜群でした。特に北の方は猿投山が見え、感動でした。

黍生山北方の眺望

また、地元の追分小学校がここに登った記念碑がありました。

追分小学校登山記念碑

さて、お城はといえば、単郭で割と広い曲輪が頂上に広がっていました。

頂上の曲輪


愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり

黍生(きびゅう)城(1) 豊田市

2019年04月22日 06時55分12秒 | 豊田市
4月20日(土)黍生城に登りました。
標高374m、比高240mで、けっこう登りがいのある山でした。
はじめこの黍という字が読めませんでした。なんとサトウキビ、キビダンゴのきびでした。
黍と生まれるという字で、キビュウと読むそうです。

黍生城は、案内板によれば、平安時代の終わりに尾張国の山田重直の六男重長が、足助へ移住して、賀茂六郎足助重長と称し、築いたのが始まりと伝えられているそうです。その後、平家に攻められて落城しますが、ここはこの付近の最高峰であるため、戦国時代までいろいろな時に使用された城と考えられるそうです。現在の遺構は、たびたび改修されたものと考えられるそうです。

足助という地域が古いということがここでも分かりました。


頂上の黍生城案内板

案内にもあったように黍生城の近くに足助の町があります。足助には、山城がたくさん残っていて、黍生城は足助七屋敷の一つに数えられているそうです。足助七屋敷とは、黍生城、成瀬城、臼木ヶ峯城、飯盛山城、大観音城、真弓山城のことです。足助氏がここを本拠として活躍していたときのことです。中心は飯森山城のようです。この七つの城で足助を守るネットワークを作っていたのでしょう。

黍生城と足助(地理院地図から作成)

足助もみじこども園のとなりに大きな駐車場があり、そこに車を停めて道の向かい側から登りました。
信号を渡ると舗装された広い登り道があり、そこを歩いていきました。しばらく歩いていると左側に「登山道」の看板がありました。

登山道の入口

あとはずんずん登るだけです。しかし、けっこう勾配が急で、しかも道が長かったので、私にはきつかったです。

途中の標識

愛教労 城の会 6月22日 市場城めぐり

仁木城跡(2) 豊田市

2017年12月05日 05時26分14秒 | 豊田市
城の概要
標高 440m
城主 「三河国二葉松」では「仁木村篠平砦」の項があり、城主不知と記載されています。ネットでは、春日井与左衛門と伝えられるとのことです。
なお、地元の人の話では、「城ケ峰城」とも呼ばれているそうです。

仁木城跡概念図(「愛知県中世城館跡調査報告書Ⅱ(西三河地区)参照」

登城記
仁木城へと山道を進んでいきますと、まず堀切にぶつかりました。堀切から腰曲輪に沿って切岸が見られました。

堀切と切岸(南側から撮影)

主曲輪の周囲はぐるっと腰曲輪がありました。そして、腰曲輪と主曲輪の間は、浅い横堀が掘られていました。

主曲輪を取り巻く腰曲輪と横堀

主曲輪に上がりますと、土塁がありました。本来は主曲輪の周囲をぐるっと回っていたものと思われますが、北の方と、西の方に若干痕跡がありました。この土塁には石が点在しており、石積みであったことが想像されます。

主曲輪北の土塁

また、腰曲輪の北と西に竪堀がありました。

腰曲輪北の竪堀

仁木城跡は、詳しいことは分かりませんが、単郭のお城で周りを腰曲輪が囲むという形でした。整備されていれば堀や土塁も立派によみがえると思いました。
また、ところどころに石積みの跡を思わせる石が散在していたことや、ネットで徳川家康によって改修されたとの記事もありましたので、近世の山城として位置づけられるかもしれません。
登城路なども含め、さらに整備されたらなあと思いました。

仁木城 終わり

仁木城跡(1) 豊田市 ありがとうございました

2017年12月04日 05時04分07秒 | 豊田市
宮口古墳群を見学して、さて仁木城跡に登ろうかと辺りを見回しましたが、それらしい道が分かりません。困っていると、ちょうど近くの畑で作業している女性の方が見えました。
「すいません。この辺りにお城の跡があると思うのですが、どこでしょうか。」
「え、お城ですか。確かにあるみたいですけど。・・・・・・・・。ちょっと待ってください。うちの人を呼んできますから。」

なんて親切な方でしょう。「分かりません。」と言えば、それはそれで済んでしまうことなのですが、丁寧に旦那さん(多分)を呼んで来てくださいました。
すぐ近くの家から男性の方が見えて、
「最近も外人の方が見えて、お城の跡から、鉄砲の弾を見つけたといって帰って行かれましたよ。この辺りは蔵屋敷と言って、ずいぶん昔からの土地なんです。おじいさんがこの山の(と言って、北の方の山を指して)中腹にお宮さんを建てたのです。なかなか整備ができなくて・・・・。」
と、お話をしていただけました。

「どこから登ったらいいですか。」
「本当は、西の方から登るのですが、道がなくなっていると思いますので、こっち(北)の方から登った方がいいと思いますよ。」

教えていただき実際に登った道

ありがたいです。わざわざ登りやすい道を教えていただけました。
「これ、のどが渇くと思うから、途中で食べるといいよ。」
先ほどの女性の方が、近くにあった柿の木から柿を採ってくれて、持たせてくれました。
道を教えていただいた上に、柿までいただきました。ありがとうございました。

宮口古墳群 豊田市

2017年12月03日 13時39分29秒 | 豊田市
11月5日、宮口古墳群・仁木城跡に行きました。秋の紅葉見物兼山城めぐりという趣旨です。
小原には市場城がありますが、もう少し奥のほうに宮口古墳群・仁木城跡はあります。

宮口古墳群・仁木城の位置(市場城の北にあります)地理院地図より作成

アクセス
豊田市方面からは国道419号線を瑞浪方面へ北上します。国道19号との交差点「下仁木諸屋」まで来たら、その右側(東)の集落のさらに右奥(東)が仁木城跡です。細い集落の道を登っていきますと行き止まりになり、わずかに駐車スペースがあります。そこから山の方に向って行って、右手のほうが宮口古墳群です。

宮口古墳群・仁木城跡の位置(地理院地図より作成)

宮口古墳群
山のほうに進んでいきますと、「宮口古墳群」の看板があります。残念ながら「仁木城跡」の看板はありません。まず、宮口古墳群を見学することにしました。

宮口古墳群

宮口古墳群は、6世紀後半に築造されたそうです。6世紀後半は奈良の方で蘇我氏が権勢をふるい、593年には聖徳太子が摂政になっています。そのころ、この豊田市の小原に豪族が古墳を造るだけの勢いを有していたわけです。小原は古いです。この古墳群には、4基の古墳がありました。説明板にあるように狭いところに4つ固まってありました。

宮口古墳群・1号墳

整備も行き届いていて、大変見学しやすかったです。