愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

大給城址(おぎゅうじょうし) 豊田市

2014年12月14日 13時33分02秒 | 豊田市
 もう12月。今日は衆議院選挙の投票日ですが、せっかくの休日でしたので、お城を見てきました。
先日松平郷の松平城址を見学しましたが、そのときに一つ見ていないお城がありました。それが大給城です。大給と書いて「おぎゅう」と読むそうです。はじめは「だいきゅう」と読んでいましたが、大きな間違いでした。

大給城と松平乗元
 大給城は、地元の土豪長坂新左衛門という人の居館だったのを松平信光(松平氏初代、親氏から3代目)が攻め落とし、子の親忠に与えたのだそうです。そして親忠の子、乗元mその子乗正の時に城としての体裁を整備したそうです。(ウィキペデイア)

 松平親忠には、子どもが親長、乗元、長親などがいました。親忠のときに松平氏宗家は安祥城に入っていて、そちらは乗元の弟の長親が継いだようです。つまり宗家は3男長親が継いだわけです。
乗元は「大給松平氏」と呼ばれる系統の始まりとされています。

 大給城は看板が出ているので、国道301号線から容易に入ることができました。そして道を進んでいくと、駐車場があり、そこに車を止めて100メートルほどに史跡の入り口がありました。



大給城址縄張り図(現地案内板より)

堀切と虎口
 入り口からしばらく行くと、虎口があり、その手前左側に堀切が見えました。堀切はところどころ巨石が転がっており昔は石が積んであったと思われます。


虎口手前の堀切(案内板A)


虎口(案内板C)虎口は、例によって曲がっており、写真の虎口を入るとすぐに右に曲がり、もう一つ虎口がありました。


そして、この虎口の両側は高くなっていて櫓台となっていました。敵が来てもここから攻撃ができるようになっていました。

石塁 主曲輪からの展望
 大給城は石塁の多い城です。これは主曲輪を下から見たもので、石塁がしっかり作られていました。



主曲輪物見台から北西方向を臨む。奥の方に見える市街地は九久平(くぎゅうだいら)の団地。
(案内板Fから)

 主曲輪から腰曲輪に沿って水の手曲輪に向かうところに大きな竪堀がありました。


水の手曲輪
 この大給城で驚きは水の手曲輪という遺構です。今は空堀のようになっていますが、昔はここに水が張られていたようです。城の水がめとして、また、防御施設としては水掘りとしての機能を持っていたようです。水の手曲輪は2段になっていて、その堰は石塁でできていました。大変立派なものでした。


上部水の手曲輪の堰を中から(案内板D)


上部水の手曲輪の堰を下から(案内板D)


下部水の手曲輪の堰を下から(案内板E)

館跡

館跡の平地には梅が植えられていました。(案内板3)