さて6月30日(日)は、天気予報でほとんどが雨100%でした。ところが、奇跡的に午前中は雨が降りませんでした。10時から始めることができました。
見学会のはじめの集まり 中央の黄色のTシャツの人が萩原さん、右の兜をかぶった人が当館館長の大野さん
ハンゲショウ
遺構を見る前にいきなり半夏生(ハンゲショウ)という植物がこの歴史館のまわりに自生していることが紹介され、館長の資料館愛というか、国吉城愛というか、感動しました。
資料館の周囲に自生しているハンゲショウ
ハンゲショウとは、季節を表す言葉で、夏至から数えて11日目の頃を言うようです。また植物の名前でもあり、ドクダミ科の植物で、このころに花を咲かせるので「ハンゲショウ」という、あるいは葉の表面だけが白くなることから「半化粧」という説もあるそうです。全く知りませんでした。
国吉城石垣探訪地図 国吉城の概要図です
国吉城は粟屋期、豊臣期、徳川期の三つに分かれる
そのハンゲショウの群生地のすぐ上がふもとの居館跡になります。ここで、国吉城の基本的な歴史を教えていただきました。
弘治2年(1556)から天正11年(1583)までは、国吉城を本格的に構えた粟屋越中守勝久が居住していた時期です。
天正11年(1583)から慶長5年(1600)までは木村常陸介定光をはじめとする豊臣の家臣が居住した時期。
慶長5年(1600)から寛永11年(1634)まで主に京極家が小浜に入り、城代として多賀越中守良利が居住した時期
に分けられるそうです。
ふもとの居館跡南の石垣
それを踏まえてふもとの居館跡の石垣を見ると、雰囲気が違うことが分かります。写真の右側は石がやや小さいです。それに比べて左側は大きいです。積み方も左に比べ右は、しっかりと積まれているように見えます。
大野館長の話では、左側は豊臣家臣の木村氏によるもの、右側は、江戸期の京極高次の時代のものではないかとのことでした。
冒頭で、萩原さんが強調されていましたが、城は一度にすべて造ってもうおしまいというものではなく、時代の移り変わりで、改修されていくものということでした。なので、国吉城には石垣がありますが、一時期に誰かが造ったということではないそうです。
参考 1回目の国吉城見学記録2017年8月
見学会のはじめの集まり 中央の黄色のTシャツの人が萩原さん、右の兜をかぶった人が当館館長の大野さん
ハンゲショウ
遺構を見る前にいきなり半夏生(ハンゲショウ)という植物がこの歴史館のまわりに自生していることが紹介され、館長の資料館愛というか、国吉城愛というか、感動しました。
資料館の周囲に自生しているハンゲショウ
ハンゲショウとは、季節を表す言葉で、夏至から数えて11日目の頃を言うようです。また植物の名前でもあり、ドクダミ科の植物で、このころに花を咲かせるので「ハンゲショウ」という、あるいは葉の表面だけが白くなることから「半化粧」という説もあるそうです。全く知りませんでした。
国吉城石垣探訪地図 国吉城の概要図です
国吉城は粟屋期、豊臣期、徳川期の三つに分かれる
そのハンゲショウの群生地のすぐ上がふもとの居館跡になります。ここで、国吉城の基本的な歴史を教えていただきました。
弘治2年(1556)から天正11年(1583)までは、国吉城を本格的に構えた粟屋越中守勝久が居住していた時期です。
天正11年(1583)から慶長5年(1600)までは木村常陸介定光をはじめとする豊臣の家臣が居住した時期。
慶長5年(1600)から寛永11年(1634)まで主に京極家が小浜に入り、城代として多賀越中守良利が居住した時期
に分けられるそうです。
ふもとの居館跡南の石垣
それを踏まえてふもとの居館跡の石垣を見ると、雰囲気が違うことが分かります。写真の右側は石がやや小さいです。それに比べて左側は大きいです。積み方も左に比べ右は、しっかりと積まれているように見えます。
大野館長の話では、左側は豊臣家臣の木村氏によるもの、右側は、江戸期の京極高次の時代のものではないかとのことでした。
冒頭で、萩原さんが強調されていましたが、城は一度にすべて造ってもうおしまいというものではなく、時代の移り変わりで、改修されていくものということでした。なので、国吉城には石垣がありますが、一時期に誰かが造ったということではないそうです。
参考 1回目の国吉城見学記録2017年8月