愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

大高城・鷲津砦見学会のお知らせ

2022年04月14日 08時15分28秒 | 名古屋市緑区
5月29日(日)大高城、鷲津砦の見学会を行います。
午後1時JR大高駅集合です。
まず、すぐ近くの鷲津砦を見学し、そこから歩いて大高城に向かいます。
桶狭間の戦いを実感できたらと思います。


参加希望の方は、
電話 080-3612-0027
メール mseijyun@gmail.com(南)
まで、ご連絡ください。


知多戦跡めぐり

2022年04月13日 08時06分29秒 | 半田市
4月10日、地域の九条の会で知多地方の戦跡めぐりをしました。

イベントの案内チラシ

回ったところは、主に半田市で

望州楼(地下壕を見ました)
中島飛行機製作所滑走路エプロン跡
赤レンガ建物(アメリカ戦闘機による機銃掃射の跡)
雁宿公園(半田空襲や東南海地震で亡くなった人の慰霊碑)

そして最後に、
南知多の軍人寺(中の院)
を見ました。


望州楼で地下壕の説明を聞いています
地下壕は門から入って右側の通路にありました。コンクリート製で、まだ新しい感じがしました。大きく「く」の字に曲がっていて、20人ぐらいは入れるかなと思いました。なぜ、望州楼という旅館(今は料亭です)に造られたかと言えば、ここに中島製作所の人が宿泊したからだそうです。


中島飛行機製作所滑走路エプロン跡です。
左奥の丸くカーブしている側溝の左側がエプロンの跡地です。今は人家になっています。


赤レンガ建物前で説明を聞いています。
北側の壁に生々しく弾痕があります。ウクライナを想起させました。


雁宿公園の石碑の前に集合しています。半田には豊橋市からも、また県外の福井県からも、そして朝鮮からも労働者が来ていました。そのことが分かるように記銘がされていました。


南知多中の院の軍人像はいつ見ても、私たちに直接思いを語りかけているように感じます。また、この像の背後に何百人という家族や友人たちの思いを感じてしまいます。

松平記(21) 松平記

2022年04月05日 11時06分21秒 | 松平記

松平記p21

翻刻
岡崎衆を下知し三郎五郎を追崩し、三町程追申候処、敵も
二の備にてもり返し岡崎衆林藤五郎、小林源之助を初と
してよき者あまた討死也、其時岡部五郎兵衛横鑓を入も
り返し合戦を初、尾州衆先手の物頭やり三位をは駿河衆
小倉千之介組打に仕り高名しける、三位うたれ尾州衆力
を落し悉く敗軍仕候也
一 駿河衆ハ打勝、織田殿三河へ出る事度々なれとも岡崎を
取事ならす敗軍して古わたりへ帰り給ふ、駿河衆ハ先々
帰国、岡崎衆悦事限なし、其年三州山中城落申候、岡崎衆攻
落し、松平権兵衛没落也、蔵人殿ハ尾州衆打まけ力を落し

現代語
(朝比奈藤三郎信置は)岡崎衆に指示を出し、織田三郎五郎信広を追い崩し、三町(約300m)程追った。しかし、敵も二番目の備があって盛り返してきた。岡崎衆の林藤五郎、小林源之助を初めとしてたくさんの武将が討死した。その時岡部五郎兵衛が横鑓を入れて、(今川勢が)ふたたび盛り返し、尾州衆先手の物頭やり三位が駿河衆小倉千之介に組み伏せられ討たれた。小倉は高名をなした。三位が討たれ、尾州衆は力を落し、悉く敗軍となった。
一 駿河衆は打ち勝ち、織田信秀は三河へたびたび出たが、岡崎を取ることはできず、敗れて古渡の城に帰陣した。駿河衆は帰国し、岡崎衆は大変喜んだ。その年(天文17年)三河の山中城を岡崎衆が攻め落とし、松平権兵衛は没落した。松平蔵人信孝は、尾州衆が討ち負けたので、力を落し、・・・・

コメント
ここは、いわゆる第2次小豆坂合戦の様子が描かれています。岡崎衆を指揮しているのは、今川家臣朝比奈信置です。松平廣忠は何をしていたのでしょうか。合戦で岡崎衆の林藤五郎、小林源之助が討死します。ところが、岡部五郎兵衛(この人は桶狭間の戦いで義元の首と引き換えに鳴海城を開城した人です)の横槍で今川勢が盛り返し、とうとう今川勢が織田勢を破るという展開です。
この戦いの後岡崎衆が山中城を攻め落とした言う記事があります。松平権兵衛は織田に与していたようです。山中城は小豆坂合戦の時、織田方の城だったのでしょうか。通説では、「小豆坂合戦時、山中城は、岡城、生田城と共に今川軍の重要拠点」となっていたとあります。(ウィキペディア)どちらが正しいのでしょうか。
また、ネットを調べていると、山中城は羽栗と本宿と2つあり、どちらの城主も松平権兵衛といい、やはり織田に通じていたらしいです。山中城が2つあったとは知りませんでした。

糟塚(かすづか)砦 豊川市

2022年04月03日 16時29分40秒 | 豊川市
豊川市の糟塚砦に行きました。糟塚砦は徳川家康が永禄6年(1563)、牛久保城、吉田城の攻略の際に築いた砦です。「三河国二葉松」に「小笠原新九郎長晟(ながあきら?)」とありますので、家康の家臣の中にそういう武将がいたものと思われます。現在は龍徳院という寺院になっています。
本堂の裏手に土塁、堀が残っているというので、行ってみました。

龍徳院本堂裏の土塁跡

ありました。本堂の裏手に高さ1m50cmぐらいの土塁が。約70mほどの長さがあるそうです。この土塁の裏には堀がありました。

土塁の裏の堀

Google航空写真で表すと以下のようです。

龍徳院と土塁、堀

糟塚砦は、このような土塁、堀で四方を囲まれた砦だったそうです。
龍徳院の山門には糟塚砦の説明板がありました。

龍徳寺山門の説明版

さて、意外と早く糟塚砦の見学が終わったので、近くにある神社を見学することにしました。


菟足(うたり)神社

この神社一帯は、貝塚が広がっていた場所だそうです。また、面白い言い伝えがあり、中国秦の始皇帝が不老長寿の薬を求め、日本にあたる島に家臣徐福以下3000名ほどのものを派遣したそうですが、行方不明になってしまったそうです。ところが、日本には徐福が到来したという伝説のある場所が二十カ所以上あるそうです。そしてこの豊川の小坂井地方にも来たという伝承があるそうです。すごい。貝塚と言い、この伝承と言い、昔からここに人が住んでいた証拠だと思いました。

もうひとつ、五社稲荷神社という神社がありました。

五社稲荷神社

こちらの方は、この地がもとは古墳だったという話です。直径約32m、高さ約5mの円墳だそうです。築造時期ははっきりしないが古墳時代中期ではないかと説明板に記載されていました。この古墳の立地が豊川右岸の地帯を見渡せる丘陵にあること、後の東海道と伊奈街道の交わる交通の要衝にあることから、豊川右岸地域一帯を支配する首長の墓であろうと推測していました。
ここでもこの地域の歴史の古さを実感しました。