愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(70) 松平記

2024年07月24日 06時25分00秒 | 松平記

松平記p70

翻刻
作十郎大将分也。天野三兵と馬場小平太鑓を合、天野、馬場
小平太を突伏て、首を取、一揆共是に力を失ひ、引返す。家康、
大久保一類を針崎の押に置、大久保弥三郎計を案内にめ
しつれ、盗木を直に小豆坂へあかり給へハ、敵引返す道に
て行あひ合戦を企、よき敵数多討取給へハ、不叶して、一揆
とも引て行。石川新七、朱の具足に金の団扇の指物にてし
んがりして退く。諸人是を討と評定する。然るに、余人は山
にかるまりのく。石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七
郎ハ本道をしつしづと除く処を水野藤十郎追詰、石川と見
るに、かえせと言葉をかけ、突てかかる。石川取て返し、互に

現代語
(矢田)作十郎が大将である。天野三兵と馬場小平太が槍を合わせ、天野、馬場小平太を突き伏せ、首を取った。一揆勢これを見て力を失い、引き返した。家康は大久保一党を針崎の押さえとして置き、大久保弥三郎を案内にして小豆坂へ上がったところ、敵が引き返すのと出会い、合戦となった。家康はよき敵をたくさん討ち取ったので、一揆どもは叶わず引いていった。石川新七は朱の具足に金の団扇の指物で殿をつとめ、退いていった。皆はこれを討ち取ろうと相談したが、石川新七は山に逃れた。石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七郎は本道をしずしずと引き返していたが、そこへ水野藤十郎が追いかけてきた。水野は石川新七を確認すると、「返せ」と言葉をかけ、突いてかかった。石川は取って返し、(突きあいになった。)

松平記(69) 松平記

2024年07月23日 06時00分14秒 | 松平記

松平記p69

翻刻
を返すまじ用意と見えたりとて、大久保一党皆上和田へ
引返しける。案のごとく二手に成て押出す。然ども皆引取
ければ、一揆共手を失ひける。是偏に半之亟が芳情也。其比
家康の伯父水野藤十郎、兄の下野守と不和の義有、三河内
わし塚といふ所に浪人して御座候。藤十郎、相むこの水野
太郎作、村越又十郎と三人を同心して一揆起り申候由無
心元(こころもとなし)とて御見舞に御座候が、如此方々さハがしければ、い
かで見捨申さんと、先がけの衆に加り、一方の大将にて、数
度のはたらき御座候つる。其時分、佐々木の敵の後詰とし
て、一揆岡・大平へ働、馬場小平太、石川新九郎、同新七、矢田

現代語
(大久保衆を)引き返させないための用意であると考えられる。そこで大久保党は皆上和田へ引き返してしまった。(一揆勢は)予定通り二手に分かれて兵を出したけれども、大久保党が皆引き返してしまったので、作戦は失敗に終わった。これは偏に半之亟の芳情である。
その頃家康の伯父の水野藤十郎は、兄の水野下野守信元と仲が悪く、三河の鷲塚という所に浪人として身を寄せていた。一揆が起こったことが気がかりで、相婿の水野太郎作、村越又十郎と共に様子見に来たところ、このように戦が起こっていいて騒がしいので、これを見捨てることができないと、大将として先陣に加わり、何回も戦功をあげた。
その当時、一揆方佐々木上宮寺の後詰として一揆勢は岡、大平に軍勢を出し、馬場小平太、石川新九郎、石川新七、矢田作十郎、・・・

松平記(68) 松平記

2024年07月22日 06時53分22秒 | 松平記

松平記p68

翻刻
本多三弥、大久保七郎右衛門をねらふ。七郎右衛門ハ三弥
をねらひ、互に鉄砲にて、あいためにしけるが、七郎右衛門
はなしかちて三弥を打落す。然共うすてにて死なず。針崎
の敵共二手に成、一手ハ大久保衆をあひしらいてくひと
め、一手ハ妙国寺畷乗出る間を取切、大久保衆上和田へか
へすまじ。両方よりせりかけ、土居の方へ押懸、水田に押は
め、討べしと評定し、已に二手にわくる処に蜂屋半之亟ハ
大久保五郎右衛門が妹婿なりしかば、其由大久保衆にし
らせんと思ひ、只一騎馬を原へ乗あげければ、大久保衆見
て、あれハ半之亟也、いか様敵共和田妙国寺前を取切、味方 

現代語
本多三弥は大久保七郎右衛門をねらった。七郎右衛門は、本多三弥をねらい、互いに鉄砲で相打ちになったが、七郎右衛門が勝ち、本多三弥を打ち落とした。しかしながら、傷は浅く死ななかった。針崎に籠る敵は、二手に分かれ、一手は大久保衆に応対し、一手は(大久保衆が)妙国寺畷を出る間を取り、大久保衆が上和田に戻られないようにし、両方より攻め、土井に押し掛け、水田に追い落とし、討ってしまおうと作戦を立てて、既に二手に分けて攻めようとしている時、蜂屋半之亟は大久保五郎右衛門の妹婿だったので、針崎勢の作戦を知らせようと、ただ一騎原に乗り出した。大久保衆はそれを見て、「あれは半之亟だ。敵どもは和田妙国寺を取り切り、味方を返さないようにしている」と見た。

松平記(67) 松平記

2024年07月18日 10時19分00秒 | 松平記

松平記p67

翻刻
に、味方より大勢つづきける間、渡辺槍をひゐてにげる。渡
辺半蔵真先にかかるを、阿部四郎兵衛討倒す。渡辺源三又
ねらひて安倍四郎兵衛を討倒す。蜂屋ものく。水野藤十郎、
追掛言葉をかくる。蜂屋返し、突てかかる間、藤十郎ひく。家
康乗出し追かけ給へハ、蜂屋ひゐてにげのびぬ。松平金助
追懸行、已に追詰られ、蜂屋申ハ、家康ハ故主に候へハ手を
置逃たり。其方にハ引まじ、と取て返し、金助とつき合、終に
ハ金助を蜂屋突伏候処に、家康御馬を乗出し追かけ給へ
ハ、鑓を引ぬき、早々にげのびける。金助ハ其まゝ死す。
一 大久保一類ハ針崎の寺内までをしこミ、合戦を始ける時

現代語
(渡辺源蔵が黒田半平を突く伏せたところへ)味方より大勢槍で突いたので、渡辺源蔵は槍を引いて逃げた。渡辺半蔵が真っ先に槍で突きかかると、阿部四郎兵衛が打ち倒した。それを渡辺源蔵がまたねらって阿部四郎兵衛を打ち倒した。蜂屋半之亟も引いた。そこへ水野藤十郎が追いかけてきた。蜂屋半之亟は翻って、水野藤十郎と付き合いになった。水野藤十郎は引いた。そこへ家康が馬に乗り、蜂屋半之亟を追いかけたので、蜂屋半之亟は逃げのびた。松平金助が追いかけて行き、蜂屋半之亟を追い詰めた。蜂屋半之亟が言うには、「家康は元の主であるので、合戦をせずに逃げてきた。その方は引く必要がない」と言って松平金助と突きあいをし、ついには松平金助を蜂屋半之亟が突き伏せてしまった。すると、そこへ家康が馬に乗って現れ、蜂屋半之亟を追いかけたので、蜂屋半之亟は槍を抜き、早々に逃げ延びた。松平金助は、そのまま死んでしまった。
一 大久保一類は、針崎の寺内まで押し込んだ。合戦を始めたとき、

松平記(66) 松平記

2024年07月18日 09時48分34秒 | 松平記
松平記は、三河一向一揆の記述になっています。
この部分は、家康方と一揆方に誰が付いたかなど詳しく書かれています。
主な登場人物については、このブログですでに記載済みですので、以下、原文と翻刻文、現代語訳の3つを掲載し、コメントはなしとします。三河一向一揆の話が終了した段階で元に戻します。

松平記(66)

松平記p66

翻刻 
郎五、同弥七、杉山久内、同市助、市川理兵衛、田井善次郎、日々
のせり合也。土居に本多豊後守、竹の谷に松平玄蕃、かたの
原に松平紀伊守、矢はぎの西に藤井に松平善四郎、福釜に
松平右京、其外小栗助兵衛、同仁右衛門、同大六、是等ハ無双
の味方にて一揆共日々の合戦也。岡崎と土呂、針崎の間ハ、
わづかなれども間に上和田に大久保新八、屋敷を城にと
り合戦しける間、岡崎へハよせず。同十一月二十五日、上和田
へとりかかり、原木坂と云所にて合戦を初む。家康後詰有
敵の先手には、蜂屋半之亟、渡辺源蔵、味方にハ上村庄右衛
門、黒田半平、鑓を以つきあひけるに、渡辺、黒田を突伏る処

現代語
(杉浦八)郎五、杉浦弥七、杉山久内、杉山市助、市川理兵衛、田井善次郎が日々せり合いをしている。土居には本多豊後守、竹の谷には松平玄蕃、形原に松平紀伊守、矢作川の西に(の)藤井に松平善四郎、福釜に松平右京、其の外小栗助兵衛、小栗仁右衛門、小栗大六、これらは無双の味方にて一揆共と日々の合戦をしている。岡崎と土呂、針崎の間はわずかであるが、間に上和田に(の)大久保新八、屋敷を城に構えて合戦しているので、岡崎へは攻めることができなかった。永禄5年11月25日、一揆勢は上和田を攻めるため、原木坂という所で合戦を始めた。家康の後詰があった。敵の先手は蜂屋半之亟、渡辺源蔵であった。味方は上村庄右衛門、黒田半平であった。槍を突き合っていたが、渡辺源蔵が黒田半平を突き伏せた。