水がどこまで上がってきているか、水位を調べてみようと言う。10メートルのところに水があれば、私たちのポンプでも汲み出せるから、調べる必要があると言うのだ。水位を知り、私たちが持っているポンプで汲み出せたとしても、そんな浅いところでは水量も少ないはずだ。けれども、やってみないことには誰も納得しない。70センチほどの長さの鉄棒にタコ糸を縛り付けて、2センチの塩ビ管の中に入れていった。実は以前もこの人がそれをやって、鉄棒を井戸に落としたことがあったから、なんとなく不安が付きまとった。鉄棒が底に付き、それで引き上げようとしてもビクッともしない。やっぱりかと思ったけれど、とにかくそのままにしておくことにした。
運のいい人もいれば、悪い人もいる。決してその人のせいではないけれど、必ず裏目が出る人はいるようだ。もうこれ以上は何もせずにと蓋をして、18メートルの地下から水を汲み上げるポンプを求めて、メーカーの営業所へ出かけた。営業の人から話を聞くうちに、直径10センチの穴を地下まで空けなければならないことがハッキリした。後は私たちがそんな大きな穴を18メートルも空けられるかである。インターネットで『井戸掘り』を検索してみると、全国にはいろんな人がいろんな方法で掘っている。井戸掘りが儲からない仕事であることから、専門業者は数が少ないが、私たちのような素人で掘っているのは意外にいる。
鉄棒が出てこなくてショボついているかと思ったら、「やってみなければ分からない」と本人はサバサバとしている。「最悪いかん時は、その時に考えればいい」と楽観的だ。ニーチェが「過去に存在したものたちを救済し、いっさいの“そうであった”を“私はそう欲したのだ”に作り変えること、これこそ初めて救済の名に値しよう」「意志は、すでに起こったことに対しては無力である」と言うとおりなのだ。起きてしまった、過去になってしまったことを、あの時ああすればよかった、こうすればよかったと言っても始まらない。私たちに出来ることは、なぜそうなったのか、そうならないためにどうしたらよいのか、さらに一歩進めて、成すべきことを成すために何をするか、であるだろう。
「忘却とは、忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」とは、名作『君の名は』の放送の時に流れていたアナウンスだけれど、ニーチェとは似て非なるかな。忘れようとしても忘れられない、忘れられないのに忘れることを誓う不条理な世界こそが愛なのだろう。『君の名は』は菊田一男氏の作品だけれど、私は子どもの頃、おばあさんに連れられて映画を見た覚えがある。テレビでは鈴木京香さんが演じていたようだった。忘れようとしても忘れられないような時代から、起きてしまったことにはこだわらないと言い切ってしまう時代になってきたのだろうか。私はまだ菊田一男氏の世界にいる。