玄関に花がないのは寂しい。鉢植えのバラで、花が咲いていたものを切り取り、ガラス瓶に活けた。玄関では暗くて写真が撮れなかったので、食卓に持ってきて撮った。四季咲きのバラは秋には心なしか花が小さく見える。家の中に生花があるのはいい。カミさんはドライフラワーに凝っていた時があったけれど、私は生の方が好きだ。花瓶に枯れかけた花が刺したままになっていると気になって仕方ない。
家の中に花があったり、飾り物があったり、気の利いた絵がかけてあったり、そんな家に行くとその家の人の心配りが感じられる。大和塾の市民講座のお願いのために、代表とともに二科展へ行って来た。二科のデザイン部門で活躍している女性に、講師にピッタリと思う人がいるのでどうかという話をいただいたので、大和塾の活動を話し、講演していただく内容などについてお願いした。
彼女の作品を朝日カルチャーで見せて貰ったけれど、小品だがとてもセンスのいい作品だった。居間に飾っておくのによい作品だと思った。私は二科に知り合いもいて、毎年見させてもらっているので余り驚くことはなかったけれど、代表は「展覧会は初めて」と言うだけに、作品の数や大きさやテーマに驚いてみえた。日展が東京芸大を中心とする写実的な作風なら、二科はこれに反発した画家が作り上げた団体なので、テーマも作風も自由である。
日展の作家が技術や技法を競い合うように、二科の作家も技術や技法に挑戦するけれど、最も力点を置くのは作品の哲学なのかも知れない。何を表そうとしているのか、作者は意図を持って作品を作るけれど、出来上がった作品は言葉で語るものではないので、鑑賞者がどのように捉えるかは自由である。「なんだか、難しいね」と、代表はつぶやいていたけれど、音楽だって絵画だって、感じればいい。自分が気に入った作品をそのまま、「いいね」と受け止めればいい。
芸術はどのようにして生まれたのだろう。誰かが絵を描いた。それを見た人が「いいね」と思った。誰かが歌を作った。それを聞いた人が「いいね」と思った。おそらくそんな簡単なことが出発点ではなかっただろうか。人が自分自身を意識するようになって、芸術はその役割を深めることになった。産業革命以後の科学の急速な発展は、芸術の分野にも大きな変化が生まれてくる。科学や心理学や数学や、そうしたもので芸術を解き明かそうともした。
そしていつの間にか、まだ人のやらない方法で、新しいものを生み出すことが芸術の課題のように捉える傾向も生まれた。これに対して、人の本質に迫ることこそが芸術の目的であると考える人も現れた。いろんなものが錯綜する時代だからこそ面白いと言えるし、何をしていいのか分からないので苦しいとも言える。二科の会場で、久し振りにそんな芸術論を聞いて、なんだか若返った気がした。