友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

何が起きるかわからない

2007年12月14日 23時39分17秒 | Weblog
 期待していたことが、そのとおりに実現されてしまうと、人は期待以上に喜んでしまうようだ。友だちは会いたい気持ちがあったのに、わずか2日前にあったばかりだったから、しつこくしてしまうような気がして、会いたいとは言えなかったそうだ。だから半分あきらめ、半分連絡があることを期待していたところへ、連絡が入ったので有頂天になってしまったと言う。「あの子に会ったら、まるで天使のようだった」「神々しく美しく輝いていた」「その手を見たら、思ったよりも小さかったので、握り締めたくなった」。そんな話をしてくれたが、その顔は幸せに満ちていた。

 人生、なにがどこであるのか、わからない。わからないから人は何かを求めて生きていくことができる。「自分が好きになれない人は幸せにはなれない」と言う。おそらくそのとおりだろう。自分が嫌いな人は自分を粗末にしてしまうからだが、自分を100%好きと言う人も少ないのではないだろうか。自分の長所も短所も自分では比較的気付いているものだが、完璧に掌握できている人はいないだろう。人から言われて自分を見つめ直すことのできる人は自分を信じている人でもある。

 私は、自分にそっくりな自分の子どもが生まれることをなぜか恐れた。子どもが女の子でよかったと心から思った。女の子は可愛いし、男である自分とは別の性なので、安心して見ていることができた。人は私を「優しくて思いやりがある」と言ってくれるけれど、絶対に冷酷なところは無いのかと言えば、やはりウソになる気がする。確かに、タイタニック号の事件のように、救命ボートにはあと一人しか乗られないというような絶体絶命の場面に直面したなら、私は人を押しのけてボートに乗ることはしないと思う。

 私が自分を冷酷だなと思うのは、具体的なことが思い出せないが、たとえば私は臓器移植には反対だ。死は誰にでもやってくる。厳粛に受け止めればいいと思っている。それは私がその状態にないからそう言えるのだろうが、それでもやはり、医学の進歩には否定的だ。死刑廃止には賛成だが、殺人者は例外なく極刑に処すべしと思っている。誤って殺してしまった人も計画的に殺した人も、人殺しに変わりない。人はいつか悔い改めるかもしれないと私も信じているが、冷たく突き放した方がよいならばそうすべきだと思う。

 道徳や理性は人間が作り出したものだ。だから当然、時代によって考え方や価値観も違う。従って道徳や理性は、人がうまく生きていくためには必要かもしれないが、真理ではない。いや、真理などというものは存在しないのかもしれない。逆説的な言い方になるが、そうだからこそ道徳や理性に真理を求めるのだろう。人は一人では生きていけず、人と人との間にしか幸せをつくることができない。

 こんな時間なのに、まだ孫娘と二人だけだ。孫娘はケイタイ小説『赤い糸』を読んで、「なかなかいいねえ」と言う。カミさんは私の姉に付き添って東京で行われた秋川雅史さんのコンサートに出かけていき、「人身事故があって、新幹線の最終に乗り遅れたから、明日の朝6時に帰る」と電話してきた。人生、なにがどこであるのか、わからない。思いどおりに行かないことはやはりあるということのようだ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐藤優の『国家を斬る』 | トップ | 気の遣い方 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事