友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

この世は「幻」だ

2007年12月03日 23時04分48秒 | Weblog
 中学高校からの友だちは近頃元気がない。今月中旬に検査を受けることで、ナーバスになっているようだ。健康診断で両の肺に影があるということで、医者は良性か悪性か採って判断するというのだ。こういう時は絶対に悪い方にしか考えないのが人間だ。良性なら放っておけばよいのだろうが、悪性とならば手術をして摘出しなくてはならないだろう。最悪なら、手術もしないということだってある。

 当然、友だちは悪い場合を想定している。そうであれば後何年生きられるのか。私が「残りは半年、よくても1年でしょう」と診断されたら、何をするだろうか。まず、私の机の中や書棚に雑然と押し込められている数々の思い出の品を処分することから始めるだろうか。何をさておいても、恥も外聞もかまわず、好きだった人に甘えさせてもらうだろうか。身辺をキレイに整理し、何もせずにひたすら最後の日を静かに迎えようとするのだろうか。

 私自身は充分に生きてきたので、この世に未練はないけれど、それはおそらく何も宣告されていないから言えることなのかもしれない。80歳を超えた私の友人は、世俗な本は読まずもっぱら難しい本ばかりを読み、テレビを見る時は教育テレビのような勉強になるものしか見ない。欲望は無いのか?と思うけれど、せっせと絵を描き、皆さんにより評価して欲しいと言うから、全くの無ではないようだ。

 中学高校からの友だちは、12年間付き合ってきた彼女に「私はあなたにふさわしくない。付き合う資格がない」と告げている。それでいて、彼女と出かけたいくつもの思い出をなつかしく思っている。手をつないで歩けば願いが叶うという「恋路が浜」を、真っ赤な夕日を受けながらしっかりと手をつないで歩いた日を「幻」と決め付ける。彼女との思い出を全て「幻」にしてしまいたいのだ。そう、生きていることは全て「幻」なのだ。二人が出かけた日々の数々、一緒に食事をし、笑い、止め処もなく続いた会話も、今となれば過去は全て「幻」である。

 私はそんなに負を背負い込まなくてもいいだろうと言いたい。彼がそうすることで苦痛から逃れたいことはわかるけれど、流れるがままに流れてもよいではないだろうかと思う。中途半端なことができない人は最後まで生真面目に生きるより仕方ないのかもしれないが、切ないね。診断が出たら、飲もう。青春を一緒に生きてきた仲間で飲もう。馬鹿馬鹿しい話ばかりでもいいじゃーないか。この世は「幻」なのだから。
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