小学校の卒業文集に記載されていた自分の作文を読んで、改めて私自身の成長過程を見た気がした。小学校4年の時の屈辱が私を変える原点だったのだ。自動車修理工場の息子は悪童で、宿題や図画の課題を私に押し付けた。写生大会では彼のために絵を描かされ、自分の絵を描く時間の余裕がなくて、彼の絵は賞をもらったのに私の絵は佳作にも入らなかった。彼はプロレスが好きで、放課後は毎日教室でプロレスごっこだった。そういう毎日が嫌で、私は学校を休んだことがある。
4年の担任は女の先生だったが、とてもきつかった。悪童が何か悪いことをすれば、それは男子全員の責任で、学級委員である私の責任になった。本でたたかれたのは、「あなたは学級委員なのだからもっとしっかりしなさい」という叱咤激励だった。通信簿はいつも「おとなしく素直だが、積極性に欠ける」とあった。どうしたら積極性が生まれるのかと考え、実行に移そうとしたのが5年生だった。それまで私は教室で手を挙げることはなかった。それは自信がなかったからだ。それなら自信を持って答えられるように、前日に教科書を声を出して読もうと決めた。
勉強は学校の教室で、先生から教えてもらうと思っていたが、授業の始まる前には教科書を見るようにした。5年のクラスにもミニ悪童がいた。それが私の席の隣で、私が「積極性をつくるために勉強する」と言うと、「オレも一緒にやる」と言うので、ふたりで勉強した。それでいつの間にか、ミニ悪童とは親友になってしまった。「性格は変えられない」と言う人がいるが、私は自分の体験から、「意識すれば変えられる」と思っている。6年生になり私は児童会の会長に立候補した。キリスト教への関心もこの5年か6年の時から始まった。
社会の矛盾や不正や不公平、人はどう生きるべきかと考えるようになっていたし、それを実践しようとしていた。私にとって大きな反面教師が、家庭では祖父の存在だった。明治初めの生まれの祖父は家父長制度の生き残りで、晩御飯の始まる前に、ひとりだけ特別なおかずでお酒を飲んでいた。祖父の晩酌が終わると祖母はみんなを食卓に着かせて晩御飯にした。私にはとても理不尽なことに思えてならなかった。父親は教師で小学校の校長だったのに、祖父の前では何も言わなかった。絶対的な権利を祖父だけが持っているのはおかしい、これは民主主義ではないと思うようになった。
中学1年が終わる時には、もう誰も恐くなくなっていた。この時期は、ひ弱でおとなしいだけの子どもから、強くたくましい大人になりかけていた。私は完全に自己改革していた。好きな女の子もできて、先生が言うように、「大人になった」と思っていた。自己形成の基点は小学校の5年か6年だっただろうけれど、基礎が形成されていったのは中学の時だろう。自分が何者になるのか、それは分からなかったけれど、何者になるにせよ人としての土台は出来ていたと思う。高校はそんな自分がさらに大きくなっていく課程だった。
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