写真の整理をしていたカミさんが、「ねえ、これ、あなたの遺影にいいんじゃない」と言う。私が驚いていると、「別に若い時の写真でもいいみたいよね」とニッコリする。若い時の写真でも、子どもの時の写真でも、それはいいけれど、私がビックリしたのはもう遺影を準備しているのかと思ったからだ。
「早くから決めておかないと、間に合わないと困るでしょう」とまで言う。そういう時期に来ているんだと痛感する。そう思いながら、バラバラに箱に収めてある写真を、私のものと家族のものに分け、私のものも小学校・中学校そして教師になってからと、子どもたちも知っているグループのものとに分けた。
子どもたちにとってみれば、知らない顔の人たちは、見ても何の興味も湧かないだろう。次女が言うように、塩をまいて燃えるゴミで出すべきなんだろうが、いざ、自分のものとなるとなかなか決断できないので、分別さえしておけば、後は子どもたちが処分してくれるだろうと先送りにした。
そうしてみると、どうしてこんな物が取って置いてあるのだろうと思う物がたくさんある。古い手紙はともかく、そのためのメモ帳まである。中学から書いて来た日記も、随分前に作家のところへ送った。ところが作家からは何の返事も無く、しばらくすると新聞のコラムに、「日記や手紙を送られて困る」と書かれていてガッカリした。
自分にとっては貴重なものでも、他人にとってはゴミでしかないのだ。そう思ったら、自分が不要な物は早めに処分しておこうという気になった。人は皆、それぞれが思い出を持っている。どんなに大切な物でも、他人にとってはゴミでしかない。子どもたちが処分に困らないように、私が処分しておこう。
兵庫県知事選挙は激戦で、既に投票率は前回を上回っているようだ。次女夫婦も投票に出かけただろうか。何か、明るい兆しが見えるといいのにと願う。