友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

誰も来ない日

2007年10月19日 23時36分09秒 | Weblog
 日本語教室は先週に引き続き今週も誰も来ない。こういうことはよくあることだ。陽気のよい頃は企画的受講生もやってくるが、寒くなるにしたがって欠席が目立つようになる。しかし、まだ10月で、暑くもなく寒くもない時期だから、どうしてなのだろうと考えてしまう。教室がおもしろくないのだろうか、彼らの要求を満たしていないのだろうか、そんな不安がよぎる。12月2日の日本語能力検定試験を受けると言っていた二人もこのところ仕事が忙しいのか、顔を見せない。

 誰も来なくても、教室は毎週金曜日の午後7時30分から開けて、準備をしておかなくてはならない。誰がひょっこり現れるかわからないからだ。ずっと昔、この教室に通ってきていた人が、何年も経ってからまたやってくることもある。日本語を学びたいという外国人は真剣だ。日本語がきちんと話せるようになりたい。あるいは日本の文字を書けるようになりたい。ましてや、日本で事業をしたいと考える人や日本人に好きな人がいるというような人は本当に熱心だ。

 私はそんな外国人のために、毎週出かけていって教室を開き、彼らが現れるのを待つ。これは責任者としての務めだと思っている。若い時なら、馬鹿らしくなってさっさと帰ってしまったかもしれない。年老いた今では、そういうこともあることを予想して、時間潰しのための本を持ってきている。読みたい本を忘れてきた時は、ブログのための下書きなどして、時間を有効に使っている。

 ブログは、テーマさえ決まれば直接パソコンで打ち込み、時簡に余裕があればもちろん読み直して訂正もするが、どうしても一日に一つのブログを掲載したいとの思いがあるので、零時近くなると焦りが先に立ち、読み返す余裕のない時がある。「よい大人が文字を間違えている」と指摘されるのはこんな時だ。文章は気持ちがのればどんどん書き込んでしまうので、後から読み返すとヘタだなと思うことはよくある。ただ、間違った主張をしていたと思うことは今まで一度もない。

 昔から書くことは苦にならなかった。紙とエンピツがあれば、見たものを文章に再現したり、時には脚色したりしていた。日記は中学の時から、毎日ではないが続けてきた。何を書いてきたのかとなると、ちょっと恥ずかしいが、続けてきたことは自慢できる。私が紙に向かって書くことは、ほとんどが個人的な思いだが、時事問題なども新聞や雑誌などでテーマが見つかれば、自分はこう思うと主張することにためらいはなかった。

 高校生の頃、友人が「政治家よりも芸術家向きだ」と評してくれたが、あの頃は、社会の矛盾に関心はあったが、それ以上に生きていることの意味や人の心の動きに惹かれていた。

 やはり、今日も誰も来ないようだ。おかげで、ブログの下書きもできた。今晩は、大和塾の機関誌『風』の第3号、山田栄久代表の逝去についての追悼号を仕上げなくてはならない。皆さんからいただいた原稿もそろい、後はどのようにレイアウトをするかにかかっている。こうやってくると、気力が無いなどと言っていたことがウソのようだ。ガンバリズムがまた湧き上がってきた。
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