私には8月生まれの妹がいる。妹は1946年生まれだから、戦争の恐怖から解放されて出来た子と言える。この時、母は39歳だから遅い子と言えるだろう。縁側に置かれたタライで、身体を洗ってもらっている妹を覚えているが、何歳の時だったのだろう。
妹は甘えっ子でいつも母の傍にいた。なのに、中学2年の時に母を亡くし、父と私と妹の3人暮らしが始まった。私が高校3年の時、つまり妹の高校1年の時、父が亡くなった。妹は父と一緒の部屋で寝起きしていた。前の晩、父は凄く咳き込んでいた。
それで私は、「どうして気が付かなかったんだ」と妹を責めた。妹が気付いたところでどうしようもなかったのに、妹に悲しい思いをさせてしまった。妹が高校を卒業する年、兄貴が事業に失敗し、一家離散になった。
名古屋の姉に妹を引き取ってもらい、私は恩師の家の書生として、恩師の子どもの家庭教師や運転手を務めることで食べさせてもらった。妹は姉がやっていた喫茶店で働き、出入りしていた常連の男性と結婚した。
男性は鹿児島県の出身だったので、結婚式は鹿児島で行われたが、鹿児島まで行く金の余裕が無かったので、私たち夫婦は欠席させてもらった。一応生活に余裕が出てきた頃だと思うが、姉・私・妹の家で、持ち回りの新年会を続けてきた。
姉が亡くなっても、兄の子ども家族、姉の子ども家族、私の子ども家族を交えて、1年に1回は懇親会を行ってきた。父や母がその様子を見たなら、きっと大喜びするだろう。父は無口な人だったが、母は賑やかなことが好きだった。
血のつながりにどれほどの意味があるかと思うけれど、これもご縁というものだろう。血のつながりに関係なく、人は出会いの中で生きてきた。妹もそのダンナも腰を痛めていて、懇親会に参加できない年が続いている。どうしているかなと心配になる。
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