『熊本俳句(第52号)』熊本県俳句協会発行
句集『肥後の城』の魂
田島三閒
俳人協会熊本県支部副支部長・「火神」同人会長
永田満徳氏は活動領域の広い俳人である。
『秋麗』・『火神』という二つの結社に属しているが、自ら立ち上げた『俳句大学』の学長及び日本俳句協会副会長としても活躍している。
地元熊本においては「俳人協会熊本県支部」の支部長として会の運営に当たるとともに、結社を越えた句会の開催にも労を惜しまず励んでいる。
そのような中、平成二四年(二〇一二年)発行の第一句集『寒祭』以来八年ぶりに、秀作三四四句を収めた第二句集『肥後の城』が上梓された。
平成二八年(二〇一六年)四月の熊本地震、令和二年(二〇二〇年)七月の豪雨による人吉球磨地方の大水害を受け、掲載句を選句し直したために出版が遅れたということである。そのため、熊本地震や氏の故郷人吉・球磨の水害を中心とした特集のように見られがちであるが、この句集にはそれ以上に「文学」と「熊本」への作者の深い思いが込められているようだ。
永田氏から届いた句集を封から取り出したとき、一瞬「熊本城が喪服を着て、喪章を付けている」と思った。この句集のメインとなるのは熊本地震であり、その象徴として「熊本城」が取り上げられている。
第一章「城下町」では、
城といひ花といひ皆闇を負ふ
この句は、それとなく城下町熊本を詠んだ句の中に紛れているが、来たるべき大地震への伏線なのかもしれない。
第二章「肥後の城」では、
曲りても曲りても花肥後の城
石垣の崩れなだるる暑さかな
私の地震直後の印象では天守閣の瓦が崩れ落ちる場面が目に残っているが、数日後に訪れたときは確かに石垣の崩壊が地震の激しさを物語っていた。地震以前の熊本城は確かに「石垣と花の城」であった。
第三章「花の城」では、
石垣のむかう石垣花の城
花の季節は巡ってきたが、木の下で楽しく花見をした以前のようには立ち入れない石垣の向こうに花は咲いている。親しく接することのできない喪失感がある。
第四章「大阿蘇」では、
成人の日の城を遠まなざしに
突然に氏の故郷人吉・球磨を線状降水帯の水害が襲い未曾有の被害をもたらした。そのために、一連の被災句を入れざるを得なくなったのであろうか、この一句に復興の途上にある城を見守る気持ちを凝集させているかのようだ。
熊本地震を題材とした作品は地震直後の春から夏にかけての作品とその後の熊本の復興過程の中で生み出された作品に分けられる。前者としては十四句が選ばれているが、その中の
こんなにもおにぎり丸し春の地震
「負けんばい」の貼紙ふえて夏近し
本震のあとの空白夏つばめ
骨といふ骨の響くや朱夏の地震
といった句には、単に地震の状況を第三者として描き出すのではなく、自分自身の肉体と五感によって得られた地震の恐ろしさを、説明ではなく実感そのものとして「物」で表現しようという姿勢が見られる。
また、後者としては、激しかった崩壊から次第に回復してゆく熊本の町並や自然への思いを描いた作品が多い。
復興の五十万都市初日差す
この町を支へし瓦礫冴返る
大阿蘇の地震鎮むる泉かな
余震なほ闇を深めて虫鳴けり
これらの句は、復興を目指して変化していく熊本人の必死な努力、さらにその背後にある大いなる自然への眼差しをも感じさせる。
例えば、「この町を支へし瓦礫冴返る」という句を見てみると、私たちの誰もが地震の後で目にした「瓦礫」を直視しながら、そこに「町を支えてきた」人間の営みと苦悩を想起し作品化しているのである。また、「取合わせ」としての「冴返る」という季語がよく利いている。
百年に一度とも言われる未曾有の大水害に襲われた作者の故郷、人吉球磨に対しても作者の視線は変わらない。
今は住んでいない故郷ではあるが、見て聞いて想像して、その災害の大きさや厳しさ、被災された人々への思いをしっかりと作品化している。
一夜にて全市水没梅雨激し
身一つもて元気と出水の故郷より
雨音に今日も出水の悪夢かな
むごかぞと兄の一言梅雨出水
さて、私見ではあるが、この句集の主眼となる作者の魂(精神)が暗示的に表現されているのは、次のような句であろう。
肩書きの取れて初心の桜かな
我が一生蟻の一生に及ばざる
脱稿の後の気だるさ螢飛ぶ
悴みておのれに執すばかりなる
夭折にも晩年のあり春の雪
学究はものに語らす梅真白
我もまた闇のひとつや螢舞ふ
春雷や自殺にあらず諫死なり
人はともすれば自分を飾る肩書などに固執して本音を隠蔽してしまおうとするようだ。
思うに俳句という文学は、さまざまなレトリックを駆使して生のままの自分を隠喩的に表現しさらけだすところに、表現者としての力量が発揮されることもあるようだ。
六句目の「学究はものに語らす梅真白」という句には、何よりも実証を大切にしようとする研究者としての思いが見える。近代文学研究者という一面を持ち、自らの俳句の深化と地方俳句の活性化、国際俳句における革新的な二行俳句の推進など、新たな道を切り開こうとする氏ならではの気迫が句中に満ちている。
さらにもう一点、この句集には時の移ろいとともに巡り来る「熊本」の自然景観の素晴らしさと、そこに生きる人々の生活に対する深い愛情を感じさせる作品も多い。
「よく見ること」「よく触れるれること」「よく感じること」に徹し、日日変貌する自然界や人間世界のできごとに向き合っている俳人の四季の記録と言えるかもしれない。
水俣やただあをあをと初夏の海
慰霊の碑も埋立ての地も灼けてをり
曲りても曲りても花肥後の城
城といひ花といひ皆闇を負ふ
耳元で北風鳴れり田原坂
天高し浦に潜伏キリシタン
阿蘇越ゆる春満月を迎へけり
大阿蘇は神のふところ青田波
水俣も田原坂も天草も阿蘇も、熊本を代表する歴史・景勝の地であるが、そこに住む人々にはそれぞれの地域の長い苦難があり、人々の累々たる営みがある。句集名の『肥後の城』はその象徴であり、永田氏は今後とも人間の営みを切々と詠み続けていくであろう。
最後になるが、真摯で骨太でありながら、人を引きつける大らかさやユーモアを備えた氏の人柄がしのばれる作品をあげておこう。
糸瓜忌の師も弟子もなき句会かな
縄文の血筋を引きて独活囓る
手を打つて笑ひ飛ばせば梅雨開くる
フランスは遠しされども秋隣
ぐらぐらとぐんぐんとゆく亀の子よ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます