井上微笑
初出 「方位」19号 三章文庫 1996・9
初めに
井上微笑。本名藤太郎。慶応三年(一八六七)、福岡県甘木市に生まれた。この年は、くしくも夏目漱石・正岡子規、そしてペンネームの由来となる尾崎紅葉が生まれた年でもあり、生まれ年の因縁の深さを思わせて興味深い。福岡中学、英吉利法律学校(現中央大学)に学び、一九歳の時、父母の居住地の関係で人吉市に住む。二六歳、球磨郡湯前町役場の書記となり、七〇歳の生涯を閉じるまでこの地を離れることはなかった。三四歳(明治三三年)、紫溟吟社の第四回兼題「更衣」(夏目漱石選)と第五回兼題「蚤」(松瀬青々選)に入選を果たす。そのときの「此の処女作(『更衣』の句=筆者注)は一句麗麗しく他と列記発表された。次が松瀬青々選の蚤それにも一句出た。私は鬼の首をニツ取つた」(「私の俳号」『かはがらし』昭和五年十二月号)という文章には、活字になつた自分の句を手放しで喜んでいる様子が窺える。これは微笑俳句の出発点が夏目漱石の存在を抜きにしては考えられないことを示している。この入選を契機にますます句作に熱中する。そして、その頃、多良木の郡立病院長須藤郷生や薬局長田代紫浜、医者久木田杉門等と知り合いになったことがその後の微笑にとつて大きな転機となった。彼らが作っていた白扇句会に参加するようになり、後には微笑がこの句会の中心的役割を担うこととなる。
微笑と白扇会
「白扇会廻報」は明治三六年二月、微笑三七歳の時に創刊され、「白扇会回報」・「白扇会会報」・「白扇会報」とその名称をわずかに変えながら、四一年に終刊する。この「白扇会報」は製作費・送料その他がすべて私費によって発行されていることを思えば、それは並大抵のことではない。高田素次氏の集計によると、「白扇会報」の最盛時の会員数は五三七名に及び、北は東北から南は台湾まで、日露戦争中は戦地に送られ、『ホトトギス』にもその名前が載るような状態であった。しかも、この雑誌が熊本は言うに及ばず、日本の近代俳句史上で特筆されるのは、五百数十名に及ぶ会員の中に近代俳句を推進した人々が名前を連ねていることである。
夏目漱石・高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・坂本四方太・石井露月・寒川鼠骨・野田別天楼等。
このような活動状況を見て、「微笑自身の熱意と辛抱強さ」(「井上微笑と白扇会」『東火』昭和十九年八月号)に目を見張るのは高田素次氏一人だけではない。この〈熱意と辛抱強さ〉の源はどこにあったのだろうか。思えらく、その一つに、後年「私は多年俳句の信者である。(中略)私は恐らく俳句を一生棄てないであらう」(「俳句ニ就テ」大正十四・十一・一○)とまで言い切るほどの俳句への情熱があったことが挙げられる。後に述べるような漱石へ依頼することの臆面もなさもそこから生じているといえよう。また、発刊して最初の年である明治三六年が最も盛んで、二カ月で八冊も刊行し、年度に構わず、十二冊をもつて一巻としていることからもわかるように、自分の熱意の赴くままに出せるときには出しておこうという気持ちがあったからであろう。しかし、それ以上に注目すべきは、紫漠吟社との相対的関係である。当時の紫溟吟社は、「吟社の句は曾て『銀杏』の刊行せられて居た時分は別として、今日では会報とか何とか世上の雑誌にはあまり見へない」(「白扇会報」第二巻第八号・明治三七・六・三〇)という状況であった。紫溟吟社の機関紙『銀杏』が終刊したのが明治三五年五月で、その年も満たない明治三六年二月に「白扇会報」が創刊された事情から考えられるのは、熊本の近代俳句を強力に推進した紫溟吟社の活動が衰退していくのを惜しんだ微笑が、紫溟吟社の仕事を引継ぎ、みずからの手で再び熊本の近代俳句を興隆しようとしたのではなかつたかということである。この紫溟吟社に対する後継者意識は、「熊城の紫溟吟社は本会の父母にして、追々吟社諸賢の御寄稿も可有之」という文章(「白扇会報」編輯係第八号・明治三六・四・三〇)に端的に示されていて、ここではっきりと紫溟吟社を〈父母〉と位置づけ、「白扇会報」を子として認識しているのである。
微笑と中央俳壇
ところで、正岡子規の俳句革新運動が明治三〇年創刊の俳誌『ホトトギス』と新聞『日本』を根城に展開されたことは周知の事実である。子規の病没後、碧梧桐が『日本』を、虚子が『ホトトギス』を受け持つわけだが、四〇年頃から碧梧桐が新傾向の句を発表するようになり、虚子が碧梧桐派の行きすぎを尻目に、大正元年頃から〈守旧派〉の立場を明らかにして俳壇に復帰し活動を展開する。こうした中央俳句界の激しい動きと白扇会の活動とを時期的に重ね合わせてみると、自扇会の活動の時期は碧梧桐と虚子の対立が激化する前の、子規派の幸福な時期であり、蜜月の時期であつたことが浮かび上がってくる。こういう時期であったがゆえに、「白扇会報」が虚子.碧梧桐を初めとして新派俳壇の有力な人物を多数選者・寄稿者に加えることができたのであろう。そういう意味から言っても、この「白扇会報」は当時の研究資料として見過ごすことのできないものがある。
碧梧桐の新傾向運動が一時期、全国の大小を問わず、ほとんどの結社を揺り動かし、虚子の周辺をさらうほどの勢いのなかで、「九州の四天王」のうち微笑ただ一人最後まで新傾向運動とは一線を画し、季語定型を守り続けた。前衛的な、当時でいう新傾向とも言うべき俳句が袋小路に陥っている現在の状況から見て、「今日新傾向も多年の練磨で、一つの俳句の行き方とあつたであらうが、これを以て俳句の標準とするほど重きを為すものではあるまい」(「俳句の標準」『俳句二就テ』前掲)と述べていることは、微笑の俳句に対する素養の確かさと先見性とを示して余りあるものがある。この周囲の状況に振り回されない態度は、もちろん〈私は多年俳句の信者である〉というほどの俳句への執着にも示されていて、本人の脇目も振らぬ、一徹な性情によるものであるけれども、漱石の兼題に対しての入選という予期せぬ幸運によって俳句開眼した喜びが大きかっただけにその喜びとその感謝の気持として季語定型を重んじたとされる漱石、直接的にはその影響のもと紫溟吟社で活躍した渋川玄耳の作句法を長く持ち続けたということができる。
微笑と夏目漱石
井上微笑宛の夏目漱石書簡は、現在七通存在している。この書簡はいずれも「白扇会報」の投稿・選評等の依頼に対しての返事である。時期的には書簡の日付でいうと、明治三六年五月一〇日付の第一書簡から明治三八年一月五日付の最終書簡の間である。漱石の側からこの時期を見ると、第一書簡の明治三六年五月といえば、英国留学からの帰国直後で、四月には一高の英語嘱託、東京帝大文科大学講師に就いて一カ月後である。また、最終書簡の明治三八年一月は、『ホトトギス』一月号に「我が輩は猫である」を発表し、一躍文名があがり、作家的デピューを果たした年である。この往復書簡の期間は俳人漱石から小説家漱石に移る最も重要な時期であったといわなければならない。
微笑にしてみれば、第一書簡の時期一つ取ってみても、漱石の帰国の機を伺って、一早く選句の依頼をしたということになろう。しかし、漱石はその第一書簡で「拝啓、貴俳並に白扇会報御送被下難有奉謝候、小生は目下大多忙にて、近来俳句とは全く絶縁の有様に候へば、評選等の儀は到底御依頼に応じがたく候。いづれ近日、虚子、碧梧桐両君の内にでも依頼致し見るべくと存候。先は右御返事迄、勿々頓首」と書き、〈大多忙〉と俳句との〈絶縁〉状態を理由に依頼を断り、自分の代わりとして高浜虚子と河東碧梧桐を紹介している。これは当然と言っては当然なことで、確かに漱石にとっては帰国直後の慌ただしい時であり、この申し出にいささか閉口したにちがいない。そういう事情を推し量ることなく、大胆な依頼をしたのには、同年二月から出し始めた「白扇会報」に少しでも彩りを添えたいという気持ちがまさったためであろう。この時期が先に触れたように「白扇会報」の活動の最盛時だったのも故なしとしない。
にもかかわらず、微笑が時を置くことなく漱石に再度依頼していることがわかるのは、第一書簡の一〇日後五月二〇日付の第二書簡である。漱石はむろんこの依頼も断り、虚子に代わりを頼んでいる。その後、微笑のたびたびの依頼に対して、漱石自身断り切れなくて、依頼に応じていることが第四・七の書簡によって知ることができる。これらの漱石書簡で浮かび上がってくるのは、微笑の「白扇会報」発行に対する熱意であり、相手の再三の断りにも意に介さないほどの情熱である。そして、漱石の「自扇会報」に対する労りであり、一地方雑誌といえどもおろそかにしない親切心である。特に、第三書簡では「拝啓、白扇会報第九号わざわざ御送付被下難有存候、右会報は活版ならぬ処大に雅味あるやに虚子とも申合候、内容も面白く拝見仕候、近頃地方俳句会の吟什見るべきもの多く、却つて本場の東京を凌ぐ佳句もゝ見受候様に存候、ほととぎす杯にても地方俳句会の句の中には大にふるうて居るのがあると先日四方太と話し申候」と書いているように、「白扇会報」を最大の賛辞とも受け取れる言葉で誉めそやしている。微笑にとって、これはお墨付きを貰ったようなもので、「白扇会報」の運営に自信を強く持つたにちがいない。
このような漱石の助力や激励に対して、微笑自身「在東京の漱石先生へは、先般御願致候処、即ち本号に於て御寄送を得たり。そもそも我が肥後新俳壇が先生に負ふ所のもの頗る多し。然るに今日我が会報が玉什を頂戴するの栄は最も欣然の至りに御座候」(「白扇会報」編輯便・第一巻第一○号・明治三六・六)と述べて、漱石への深い恩義を表明している。微笑と漱石の間には直接の面識はなかつたものの、師弟関係と言ったようなものが存在していたといえよう。微笑の熱意に漱石が振り回された格好であるが、しかし、特に帰国後の落ち着きのない生活の中で俳句を作る余裕などない漱石にとって、「白扇会報」ヘの投句の要請がなかったならば、ことさら句を作ってみようという気がしなかったであろう。その「白扇会報」への投句である十三句の、明治三六年作の二二句のなかに占める割合は大きい。その意味で、漱石の俳句史においても「白扇会報」が担った役割は決して少なくない。
微笑と正岡子規
「故子規先生に縦令直接の縁故が無いにせよ、師表としての平素負ふ所のもの決して少々のものにあらざることを信ずるのである。であるから、先生没すと難も、先生の主唱したるの道は、とこしえに存して、千尋の海の一滴にだも如かざる我会報が、斯く生長し行くを得るのも、先生の賜にあらずして何ぞやだ」(「白扇会報」第二巻第一号・明治三六・一〇・一〇)この少々力みが感じられる文章からはそれだけに微笑の子規に対する率直な気持ちが表現されている。もちろん漱石を通しての繋がりであるけれど、近代俳句の革新者としての子規に絶大な敬意を表し、子規派の系統を明言している。「今日我々の進歩して新派の俳句には最も理屈を忌むわけです。此の意味から可成説明的な文句は言はずに、唯写生の句が現代の俳句であります」(「華城句稿」昭和九年)という俳句観の持ち主であってみれば、微笑とその白扇会が子規の影響下にあることはまちがいないし、いわゆる日本派と称してもいいのであるが、今日虚子派か碧梧桐派かの問題になると、「今日新傾向も多年の練磨で、一つの俳句の生き方とあつたであらうが、これを以て俳句の標準とするほど重きを為すものではあるまい」というすでに引用した文章によってもわかるように、碧梧桐派の運動に対していささか冷めた視点で見ていることから、子規→虚子という近代俳句の主流に乗りかかっているといえるだろう。しかしこれは中央の俳壇史にだけ目を向けた捉え方であって、当時の出版、交通事情などを考えるならば、必ずしも中央の動向と同じとはかぎらず、「併し此趣味は子規氏等の言ふ如く説明されるものでない」(「破笠句稿」明治四二年)という微笑の朱評もあることから、子規派と違った、あるいは子規派としても、虚子派と違った子規派の支流との見方も成り立ってこよう。
終りに
「白扇会報」終刊後、微笑の才能を惜しんだ友人の斡旋で、九州日日新聞の「新俳壇」の選者になったが、二年で広瀬楚雨にゆずってしまう。微笑の生涯を見渡すとき、そこにはいつも漱石の影を感じる。「白扇会報」にしても、「熱心可驚。白扇会報は自費にして、好俳の士に頒つと言ふ。多作にして佳句に乏しと言ふ人もあれど、見るべきもの少なからず。九州の俳士は子に負ふ処多し」(望潮生「九州の新作家」『豊州新聞』明治四〇・一.一)と評価されるようになったのは、漱石の紹介によって碧梧桐や虚子らが参加したためであろうし、俳句への意欲が掻き立てられるきっかけになったのも、漱石の兼題選に入ったことによるものであろう。そして何よりも、頑固なまでも季語定型を守り続けたのは、漱石への忠誠ということもあったにちがいない。このように微笑の側から見ても、微笑と白扇会に及ぼした影響は顕著であり、漱石こそが「熊本最初の近代文学の開花における種蒔く人であつた」(浦池正紀「紫溟吟社・その成立と終焉」『熊本商大論集』第十五号・昭和三七・十二・二〇)という評価は少しも揺らぐことがない。
注1 「私の俳号」『かはがらし』昭和五年十二月号参照。
注2 高田素次「紫溟吟社と白扇会」『未踏』第四巻第五号(昭和六三年一月号)~第九巻第二号(平成四年七月号)参照。
注3 高田素次「井上微笑と白扇会」『東火』昭和十九年八月号参照。
注4 高田素次『湯前村史』昭和四三年十一月二三日参照。
注5 句作りの指導において「君等の様に趣味もつかまへずそんな無茶な事をしても物にならぬと云ふ事、俳句には季がある、それは絵画の色の様なものだと云ふ事、其他主観客観と云ふ様な僕等の丸で考へ及ばぬ耳新しい話」(蒲生紫川『鈍語』)をしたという。
注6 「玄耳の句の中に、漱石のにおいのする句が少なくない」高田素次「紫溟吟社と白扇会」『未踏』第四巻第五号(昭和六三年一月号)
注7 高田素次「明治俳壇の諸先輩」『井上微笑の往復書簡』東火社・昭和五二年一号参照
注8 高田素次「微笑朱評・華城句稿・破笠句稿」『東火』昭和五五年八月号参照。
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