三沢光晴というプロレスラーはすべてにおいて「結節点」的存在だったと思う。
1981(昭和56)年デビュー、すぐに二代目タイガー・マスクとして、全日本プロレスの「王道」スタイルにこれまでなかったジュニア・ヘビーの華麗なファイトをもたらす。その後、虎のマスクを自ら剥ぎ取り、平成の時代になってからは、新たにヘビー級レスラーとして全日のエース格へと躍進する。「ヘビー級だけど飛ぶ」ところがたまらなく好きだった。
99年、ジャイアント馬場の死後は、病床の鶴田ではなく、三沢が全日本プロレスの社長となる。しかしながら馬場元子夫人ら遺族との確執等が原因(ホントのところは詳しく分からない)で全日を飛び出し、新団体ノアを設立。旗揚げ興業のチケット6,000枚はわずか1時間でソールドアウトという伝説をつくる。
ノアから少し遅れて、新日本を飛び出した橋本真也も同様にZERO-ONEを設立。なんと旗揚げ戦のメインイベントは「ZERO-ONE橋本真也・新日永田裕志vsノア三沢光晴・秋山準」という夢のタッグマッチ。この時の選手入場は、タッグを組む二人が同時に入場するのではなく、それぞれがメインイベンターという位置づけで、一人ひとり別々に登場するという演出だった。試合結果は、橋本の一瞬の隙を付いて三沢がバックドロップで3カウント。興業主のZERO-ONE側が敗れるという大波乱。そして試合直後に小川直也が乱入、その挑発にキレた三沢は小川にエルボーを見舞わせる。その後藤田和之も登場し、リング上は大混乱となる。スカイパーフェクトTVで中継されたこの試合の解説は武藤敬司、期せずして観客からは「武藤コール」が起き、武藤も「俺、(リングに)出なきゃなんないのかよっ!」と解説席で叫ぶ異常な状況となった。私はこの試合を、旧来のしがらみをすべて払拭する「プロレス界の規制緩和の瞬間」だと認識している(ビデオあります。欲しい人言って下さい)。その後三沢は団体の垣根を越えて、蝶野、武藤、佐々木、小島といった新日の流れを汲むエース級レスラーとすべて戦っている(結局、武藤とはシングルマッチでは実現せず)。
ノアの代表取締役社長として団体のPRも兼ねてTVのバラエティ番組にも結構出ていた。このあたりは鶴田・藤波世代まではあまりなかったことである。最近では2~3ヶ月ほど前にテレビ東京「ポケモン・サンデー」に出演、スタジオでロバートとポケモンバトルを繰り広げた時は、不思議そうに私を見つめる子供を尻目に朝から「ミッサワッ!コール」を送らせてもらった。
こうして三沢の人生を振り返ると、彼こそまさに、「昭和のプロレスと平成のプロレスの結節点」であり、「ジュニア・ヘビー級とヘビー級のファイトスタイルの結節点」であり、「プロレス他団体どうし-元を辿れば全日と新日-の結節点」であり、「選手としての現場と経営者としてのフロントとの結節点」であるのだ。
ノアファンの中には「プロレスラー三沢最強説」を唱えている“信者”が多い。私も「プロレスで培われた受け身偏重のスタイルを、もし本気で攻め一辺倒にした場合、三沢は相当強いのではないか」という幻想を抱いていた。できれば、ノア設立後まもなく、「心・技・体」が一番充実していた時期に、PRIDEあたりに殴りこみをかけ、ガチの三沢を見せてほしかった。が、結局「箱舟」は総合のリングへ導かれることなく、「プロレスとリアルファイトの結節点」は幻に終わってしまったのである。
三沢の死でプロレスがもう終わってしまうのではないか・・・。そんな危惧を抱いてしまう。
1981(昭和56)年デビュー、すぐに二代目タイガー・マスクとして、全日本プロレスの「王道」スタイルにこれまでなかったジュニア・ヘビーの華麗なファイトをもたらす。その後、虎のマスクを自ら剥ぎ取り、平成の時代になってからは、新たにヘビー級レスラーとして全日のエース格へと躍進する。「ヘビー級だけど飛ぶ」ところがたまらなく好きだった。
99年、ジャイアント馬場の死後は、病床の鶴田ではなく、三沢が全日本プロレスの社長となる。しかしながら馬場元子夫人ら遺族との確執等が原因(ホントのところは詳しく分からない)で全日を飛び出し、新団体ノアを設立。旗揚げ興業のチケット6,000枚はわずか1時間でソールドアウトという伝説をつくる。
ノアから少し遅れて、新日本を飛び出した橋本真也も同様にZERO-ONEを設立。なんと旗揚げ戦のメインイベントは「ZERO-ONE橋本真也・新日永田裕志vsノア三沢光晴・秋山準」という夢のタッグマッチ。この時の選手入場は、タッグを組む二人が同時に入場するのではなく、それぞれがメインイベンターという位置づけで、一人ひとり別々に登場するという演出だった。試合結果は、橋本の一瞬の隙を付いて三沢がバックドロップで3カウント。興業主のZERO-ONE側が敗れるという大波乱。そして試合直後に小川直也が乱入、その挑発にキレた三沢は小川にエルボーを見舞わせる。その後藤田和之も登場し、リング上は大混乱となる。スカイパーフェクトTVで中継されたこの試合の解説は武藤敬司、期せずして観客からは「武藤コール」が起き、武藤も「俺、(リングに)出なきゃなんないのかよっ!」と解説席で叫ぶ異常な状況となった。私はこの試合を、旧来のしがらみをすべて払拭する「プロレス界の規制緩和の瞬間」だと認識している(ビデオあります。欲しい人言って下さい)。その後三沢は団体の垣根を越えて、蝶野、武藤、佐々木、小島といった新日の流れを汲むエース級レスラーとすべて戦っている(結局、武藤とはシングルマッチでは実現せず)。
ノアの代表取締役社長として団体のPRも兼ねてTVのバラエティ番組にも結構出ていた。このあたりは鶴田・藤波世代まではあまりなかったことである。最近では2~3ヶ月ほど前にテレビ東京「ポケモン・サンデー」に出演、スタジオでロバートとポケモンバトルを繰り広げた時は、不思議そうに私を見つめる子供を尻目に朝から「ミッサワッ!コール」を送らせてもらった。
こうして三沢の人生を振り返ると、彼こそまさに、「昭和のプロレスと平成のプロレスの結節点」であり、「ジュニア・ヘビー級とヘビー級のファイトスタイルの結節点」であり、「プロレス他団体どうし-元を辿れば全日と新日-の結節点」であり、「選手としての現場と経営者としてのフロントとの結節点」であるのだ。
ノアファンの中には「プロレスラー三沢最強説」を唱えている“信者”が多い。私も「プロレスで培われた受け身偏重のスタイルを、もし本気で攻め一辺倒にした場合、三沢は相当強いのではないか」という幻想を抱いていた。できれば、ノア設立後まもなく、「心・技・体」が一番充実していた時期に、PRIDEあたりに殴りこみをかけ、ガチの三沢を見せてほしかった。が、結局「箱舟」は総合のリングへ導かれることなく、「プロレスとリアルファイトの結節点」は幻に終わってしまったのである。
三沢の死でプロレスがもう終わってしまうのではないか・・・。そんな危惧を抱いてしまう。