左は私の中学の恩師の小林健孜先生、右側が宮崎一さん。2013年10月25日の写真です。場所は篠ノ井の丸十さんです。小林先生が篠ノ井の公民館長をしていて、絵を描く宮﨑さんと知り合い、お誘いいただきこの図柄となりました。
宮﨑一さんは、川バスの仲間からは「はじめちゃん」と呼ばれ、あるいは「ぴんさん」と呼ばれていました。私の2007年の参議院選挙では選対の責任者をしていただき、篠ノ井をはじめかつての仲間の皆さんのところをごあいさつ回りに連れて行っていただきました。
一度アトリエを尋ねたことがありましたが、狭い部屋に所狭しと絵が並べられていました。川べりの木々の絵が多かったような気がします。2009年に長野市で開催した護憲大会のパンフの表紙絵も宮﨑さんの絵でした。そして題字の「ずく出せ護憲派」は、同じ篠ノ井つながりで川村龍洲さんに書いてもらいました。川村さんは書家の川村驥山氏の御養子さんですが、私は小学生のころ驥山会で国鉄にいた西村先生に地元の松岡公民館で書道を習っていたことがありました。
私の地元で小林先生も教えられていた女鳥羽中学校の校区である岡田という地名は、かつて木曽義仲と共に平家追討に立ち上がった信濃源氏一党の岡田冠者親義に起源があると言われていますが、岡田冠者親義の末裔が篠ノ井岡田に移り住んだという言い伝えもあることから、そのことを調べたいというお話で盛り上がったことを覚えています。
もちろん、宮﨑一さんといえば長野市議会議員時代、地域公共交通政策では第一人者で、現在あるバスレーンを推進した人でもあります。長野道をつくる時にも線形を提案したことをお話しいただいたこともありました。
どこへ行っても若い人も先輩も「はじめちゃん」で通っていて、誰もが懐かしそうにお話をしてくれました。本当に人望の厚い人でした。心より哀悼の意を表します。(合掌)