こんにちは「中川ひろじ」です。

みんなのお困りごとが私のしごと

3.11脱原発社会をめざす塩尻の会

2017-03-11 18:07:13 | 活動日誌

 

2011年3月11日から6年がたった。テレビでも特集が組まれているが、どこのチャンネルも「風評被害」ばかりが妙に目立つ。私は塩尻で開催された「脱原発社会をめざす塩尻の会」に、福島の現地との交流の報告を頼まれ原水禁松本の副代表として参加しました。以下報告した内容です。(動画あります

最初に犠牲となった皆さんに心より哀悼の意を表します。

松本地区原水禁では、2011年の東日本大震災・東京電力福島第一原発事故以来、「つながろうフクシマ」を合言葉に支援・交流を続けてきました。2011年は福島第一原発から30キロ圏外で自主的に開設した保育園への支援活動を中心に行いました。2012年には同じく南相馬の安心・安全プロジェクトが行う通学路や幼い子どもたちが居住する家の除染ボランティアを行いました。2013年からはいわき市にある楢葉町の応急仮設住宅の皆さんや原発労働者との交流を毎年行ってきました。塩尻の方にも参加をいただいていますが、昨年11月でこの「福島原発の現状を学ぶ現地視察交流ツアー」は4回目を数えます。 

最初に楢葉町の状況について報告します。楢葉町は、一昨年2015年9月に帰町宣言が出され、11月には私たちを受け入れてくれた応急仮設住宅の自治会も解散し、「帰るのか」「帰らないのか」それぞれが生きる道を模索しています。

帰町宣言以降の1年間で、楢葉町に帰られた方は昨年9月現在で376世帯681人、帰還率は世帯で14.0%、人員で9.2%となっています。世帯と人員で帰還率に開きがあるのは、同一世帯でも2カ所以上に分散避難している世帯が52.1%に上り、一つの世帯でも帰町する人としない人がいるということを表しています。

 「若い人と別々に暮らしているため戻って家を整備することもままならない」「若い人は楢葉に戻らないと言っている」、これは町が行った聞き取り調査での声です。

 私たちとの交流の中でも「病気もちで帰っても看てくれる病院があるのか」「ペットをつれて帰れるのか」「準備宿泊で一週間泊まったがまわりは誰もいなくて寂しい」「日中高齢者が一人だけとなり認知症が進むのではないか」などの声が聞かれました。

 このほか「除染及び廃棄物の管理への不安」「放射線量への不安」「飲み水の不安」「住宅再建への不安」「買い物の不安」などが出されていました。

次に、相馬市の応急仮設住宅で避難生活を続ける飯舘村の皆さんのお話です。この6年で、応急仮設住宅で亡くなった方も多いそうです。この3月末で飯舘村へ帰ることができるのですが、6年間仮設住宅で一緒に暮らし、またそれぞれが新しい場所で新しい暮らしを築くので寂しさもあると言っていました。

飯舘村で牛を飼っていたSさんのお話です。「牛をどうするか悩んだが、相馬市で豚をやっていた農家の豚舎を借りることができて続けてこれた。3月末で飯舘村に帰ることにした。3.11前までの飯舘牛としてのブランドがどうなるのか心配している。」

3.11のあと夫婦子ども家族で仙台に避難されたTさん。「避難先の仙台のアパートが余りに寒くて一週間で飯舘村に帰りました。家から出るな、と言われてひっそりと暮らしていて、7月2日に仮設住宅にきました。今後は息子夫婦と相馬市で生活するつもり、また、あたらしい環境に慣れるまでが大変。」

3.10にご主人のお通夜をして、翌日の地震。お葬式はできずに、栃木の鹿沼で、うつ病の息子と暮らし、その後仮設住宅に移ってきたYさんは、相馬市につくられた災害公営住宅に移ることになっています。6年間同じ応急仮設住宅で暮らしてきた三人が。この4月からまた新しい生活の場で暮らし始めるのです。

交流の中ではこんなお話も聞きました。「飯舘村の子どもたちは、だいたいが福島などへ移住している。仮設住宅には子どもは少数。その子どもが「飯舘村の子どもはきたない」「お金もらっているだろう」と言われて、いじめにあっている。登校する時、バスの乗り口で身体をはって、「学校へいかない」と大泣きをしていた姿を見て、本当にかわいそうだった。」

 次に、いわき市内で母親たちの交流や独自に放射能汚染を測定している「TEAM ママベク 子どもの環境守り隊」の代表の方のお話を紹介します。

「政府の空間線量の測定の仕方は、幼稚園児の場合は幼児の内臓部分を考慮して、地面から50㎝の高さを測るということになっていて、その高さのところで0.23µ㏜/hなければ、除染の対象とはなりません。しかしある場所では、50センチの高さでは平均0.15µ㏜/h。地表5㎝の高さでは0.30µ㏜/h。子どもは地面に座るし転ぶし、土を触るし・・・地表の数値も、そして土壌汚染の結果も除染の対象に含めてほしいとずっとお願いをしているのですが、そんな子どもの行動を伝えても、国が認めた基準以外は除染の対象にはなりません。しかも、除染事業は今年度で終了。終わりなんてないのに、汚染はなくなってないのに、5年の線引きで、「はい、おしまい」とされてしまうんです。なんとかできないかと、もどかしさを抱えています。

まだまだホットスポットは存在していることや、汚染は移動していること、土壌汚染の値を見れば、被害を受けていない地域の子どもに比べて、ここに暮らす子どもたちが、どれぐらいのリスクを背負いながら過ごしているのかが分かります。「心配はない」「影響はない」という、安心を促す情報は溢れていても、将来への影響を考えて、予防原則に立って防護を呼びかけるような情報はほとんどないため、子育てや仕事と、暮らしで精一杯の母親たちが、最善を尽くして子どもを守るということが、とても難しいという現実があります。復興に向けた取り組みの他に、子どもを追加被曝から守るための暮らし方を伝えるということは、未来を守るためにとても重要なことです。」

 今日は、時間の関係で原発労働者のお話はできませんでしたが、除染や福島原発廃炉の取り組みは被ばく労働抜きにはありえません。しかし何重もの下請け構造の中で、賃金や安全手当のピンハネ、労働安全衛生の無視による健康被害などの問題が山積しています。

原発の廃炉にむけ、毎日、約7,000人の作業員が高い放射線量のもとで働いていることにより、原子炉内が冷温停止状態に保たれています。彼らがいなければ、福島の未来も日本の未来もありません。

30年以上かかるであろう廃炉作業を実現するためにも、安定した雇用と賃金等の労働条件の向上が求められているというお話をお伝えしておきます。

「原発の事故さえなければ」「元の生活に戻りたい」「もう原発はいらない」、これが偽らざる福島の皆さんの共通の思いです。私は、これからもこの思いにつながっていく努力を続けていきたいということを最後に申し上げ報告とさせていただきます。

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