リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

誤解?誤用?

2005年10月14日 20時41分31秒 | 音楽系
今日の日経夕刊のコラムで,作家の高橋たか子さんが「慰めの音楽」と題した一文を寄せていました。高橋さんにとってある種の西洋音楽が慰めの音楽になり,フランスやイタリアの教会音楽の美しさについて書かれていました。

自己の音楽体験を綴ったなかなかいい文章だと思いましたが,ひとつだけよくわからない部分がありました。それは,教会音楽の美しさが「たえまなく転調しているからであるらしい」,という部分です。この文を読んで,教会音楽でそんなにたえまなく転調するのってあったかな,って考えてしまいました。

ひょっとして転調というものを誤解されている?いえいえ,高名な作家がそんなことは・・・でも転調という言葉は音楽の専門用語だから勘違いしてしまう可能性もあるのかも。

音楽系の専門用語で文学系の人に誤用されている筆頭は何と言っても通奏低音でしょう。(ということを言っているのはたぶん私だけかも知れませんが(笑))何のことかわからないかたは私のサイトの通奏低音用例集をご覧下さい。

あと,絶対音感の効用というのも世間では誤解されているような感じですね。演奏家や作曲家になるには絶対音感がなければだめだ,という誤解というか迷信ですね。絶対音感があっても音痴な人(もちろん専門家としてはですが)を何人か知っていますし,音楽的訓練を受けてなくても絶対音感をもっている人も知っています。要するに絶対音感は音楽表現能力とは関係のないものみたいです。

幼少からの音楽的訓練でつく絶対音感は,440ヘルツで平均律の音列を覚えることでしょうけど,古楽だといろんなピッチや調律の仕方があるのでかえってそれはじゃまになるようです。私はなぜか一音だけ(D音)覚えていますが,(それも音楽がなっていないところでないとだめです)そのくらいがじゃまにならず便利な感じです。

有名な人が言ったこととかマスコミで広まったことに誤解がある場合,それを解くのはなかなか大変です。特に音楽は形のないものなので,正しいことをこうだって目で見えるように示せませんからことさら大変です。