今日の日経新聞のコラム、「風紋」は「1964年から何を学ぶか 顧みたい「教養」の精神」で前回の東京オリンピックが開催された1964年頃の時代背景にスポットあてていました。
高度成長まっただなかのこの時期、拝金主義が横行しつつあったというのも事実でしょうけど、今から見ると意外にも「教養」を身につけることを価値とした社会でもあったというのです。
コラムでは文芸関係のことを扱っていますが、音楽の面からも見てみますと、ちょうどこのころ映画「禁じられた遊び」の音楽がきっかけでギターブームがおこっています。ギターと言ってもブームになった楽器はいわゆるクラシック・ギターです。当時はエレキ・ギターは出始めの頃でしたが、少し経つとこっちも大ブームになりました。といってクラシック・ギターが急に下火になったわけではありません。
当時クラシック・ギターを始める人は古典的な「カルカッシギター教則本」で学び、演奏する曲はクラシック的な曲が多かったです。でもギターを学びたいという人のほとんどは実はクラシック音楽には興味がなかったのだと思います。
それはその頃ギターを始め、現在も続いている方たちのほとんどがギター音楽以外のクラシック音楽に興味がないという事実から伺われます。でもこれはコラム氏が言うように、「世の中に「教養」を身に付けることを価値とした社会」が支えていたから、抵抗もなくクラシック音楽でギターを学んでいたのだと思います。
クラシック・ギター以外にもこの時代に「教養」の精神を感じることがあります。例えば、非常に専門的な月刊誌「音楽芸術」(音楽の友社、1998年休刊)がごく普通に桑名市内の書店に並んでいました。武満徹の室内楽「サクリフィス」(1962)が同誌の別冊付録になっていたのもこの頃です。
武満は当時30代前半、新進の作曲家の1人で、弦楽のためのレクイエムがロシアの大作曲家に認められ名を上げつつあった頃です。音楽の教科書でも扱われた有名な尺八と琵琶を取り入れた「ノベンバー・ステップス」はまだこれから、ギター曲「フォリオス」はずっと先です。
こういった教養を価値とした社会で、実際はちょっと背伸びしていた人達が、世の中が拝金主義に傾いていく中でもう背伸びをする必要がなくなったというのが現在の社会なのでしょう。でもこの「教養」を価値とする社会は高度成長社会と共に「育って」いったのではなくて、ずっと前からあったと考えるのが自然ではないでしょうか。
そのルーツはひょっとしたら江戸時代なのかも知れません。もしそうだとすると伝統的とも言える日本の文化的基盤は、高度成長を経て大きく変わってしまい現代にいたっているのかもしれません。現代はカネカネカネの拝金主義、カルロス・ゴーンの逃亡事件はそれを具現化して見せたかのようです。
高度成長まっただなかのこの時期、拝金主義が横行しつつあったというのも事実でしょうけど、今から見ると意外にも「教養」を身につけることを価値とした社会でもあったというのです。
コラムでは文芸関係のことを扱っていますが、音楽の面からも見てみますと、ちょうどこのころ映画「禁じられた遊び」の音楽がきっかけでギターブームがおこっています。ギターと言ってもブームになった楽器はいわゆるクラシック・ギターです。当時はエレキ・ギターは出始めの頃でしたが、少し経つとこっちも大ブームになりました。といってクラシック・ギターが急に下火になったわけではありません。
当時クラシック・ギターを始める人は古典的な「カルカッシギター教則本」で学び、演奏する曲はクラシック的な曲が多かったです。でもギターを学びたいという人のほとんどは実はクラシック音楽には興味がなかったのだと思います。
それはその頃ギターを始め、現在も続いている方たちのほとんどがギター音楽以外のクラシック音楽に興味がないという事実から伺われます。でもこれはコラム氏が言うように、「世の中に「教養」を身に付けることを価値とした社会」が支えていたから、抵抗もなくクラシック音楽でギターを学んでいたのだと思います。
クラシック・ギター以外にもこの時代に「教養」の精神を感じることがあります。例えば、非常に専門的な月刊誌「音楽芸術」(音楽の友社、1998年休刊)がごく普通に桑名市内の書店に並んでいました。武満徹の室内楽「サクリフィス」(1962)が同誌の別冊付録になっていたのもこの頃です。
武満は当時30代前半、新進の作曲家の1人で、弦楽のためのレクイエムがロシアの大作曲家に認められ名を上げつつあった頃です。音楽の教科書でも扱われた有名な尺八と琵琶を取り入れた「ノベンバー・ステップス」はまだこれから、ギター曲「フォリオス」はずっと先です。
こういった教養を価値とした社会で、実際はちょっと背伸びしていた人達が、世の中が拝金主義に傾いていく中でもう背伸びをする必要がなくなったというのが現在の社会なのでしょう。でもこの「教養」を価値とする社会は高度成長社会と共に「育って」いったのではなくて、ずっと前からあったと考えるのが自然ではないでしょうか。
そのルーツはひょっとしたら江戸時代なのかも知れません。もしそうだとすると伝統的とも言える日本の文化的基盤は、高度成長を経て大きく変わってしまい現代にいたっているのかもしれません。現代はカネカネカネの拝金主義、カルロス・ゴーンの逃亡事件はそれを具現化して見せたかのようです。