リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

少年たちは秀吉の前でどういう曲を演奏したか(1)

2021年06月30日 22時51分18秒 | 音楽系
先日の日経新聞朝刊文化欄に、星野博美さんのエッセイが掲載されていました。私の中では「マイブーム」ですが、世間的には特にそうではないと思います。一瞬「マイブーム」が飛び火したのではと思いましたが、そんなはずはありません。(笑)

星野博美さんのご著書で秀吉御前演奏曲が「皇帝の歌」というのはおかしい説を拝見し、別の角度で「おかしい説」を唱えていた私は大いに勇気づけられました。

私は音楽史的な面から「おかしい説」を唱えていたわけですが、彼らの行動を踏まえ、もう少し具体的に、彼らがどこで、どんな音楽家に会い、どういう曲を覚えたり書き留めてきたかという可能性を探ってみたいと思います。

それにはまず彼らがたどった道筋をたどることが必要だと思いますので、以下に書いてみたいと思います。(若桑みどり著の「クアトロ・ラッガツィ」を参照しました)

1582年2月、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティーノ、中浦ジュリアンら一行が長崎を出帆する。

マカオ、ゴア(インド)を経て
(1582年6月に信長が光秀に討たれる)

1584年8月、リスボン到着。

1584年11月、フェリペ2世に謁見。

1585年3月、ローマ到着。教皇グレゴリオ13世に謁見。

1585年6月、ローマを出発。

1586年4月、リスボン出帆。

以下略で長崎に帰還したのは1590年です。

フェリペ2世はスペイン王ですが、1580年からポルトガル国王も兼ねていました。出発して4ヵ月後には信長が討たれていますので、ここですでに梯子をはずされていたわけです。