「いじめ自殺」や自殺者の3万人越えが続いているために、教育界では小中学生に自殺予防教育を行えという圧力が生じている。
それに対して、現場の教師の多くが困っている。理由は教育材料がない、方法が分からないといったことだ。それなのに、自殺予防の声だけが高まっている。
中学生ともなると「人間はどうせ死ぬのに、なぜ自殺はいけないんですか?」くらいのことを言う生徒が必ず出てくる。教師は返答に窮するだろう。
そもそも自殺はアリストテレスやソクラテスが否定するまで、古代ギリシャでは是認されていた。
キリスト教も初めのうちは殉教という形の自殺を容認していた。教会が公式に自殺を禁止したのは6世紀になってからである。
13世紀にトマス・アクィナスは自殺を改めて否定した。だがそれも、ルネッサンスのころには緩み始め、自殺を罪悪とは考えないようになってきた。
ヒュームは自殺是認論どころか、肯定論を宗教的な色彩無く開陳してトマス・アクィナスを批判した。それに対してカントがこれまた宗教色無く自殺を否定した。
このように自殺に対する態度は時代ごとに変転してきた。日本ではついこの前の大戦まで「生きて虜囚の辱めを受けず」と教育した。
こうした歴史を踏まえずに、ただ自殺はやめましょう、では通らないだろう。ちょっとマセた中学生なら、上記のようなことを言うはずである。それを論破できる教師はいない。
教師が自殺予防教育にとまどうのも、まったく無理のないことなのである。
それに対して、現場の教師の多くが困っている。理由は教育材料がない、方法が分からないといったことだ。それなのに、自殺予防の声だけが高まっている。
中学生ともなると「人間はどうせ死ぬのに、なぜ自殺はいけないんですか?」くらいのことを言う生徒が必ず出てくる。教師は返答に窮するだろう。
そもそも自殺はアリストテレスやソクラテスが否定するまで、古代ギリシャでは是認されていた。
キリスト教も初めのうちは殉教という形の自殺を容認していた。教会が公式に自殺を禁止したのは6世紀になってからである。
13世紀にトマス・アクィナスは自殺を改めて否定した。だがそれも、ルネッサンスのころには緩み始め、自殺を罪悪とは考えないようになってきた。
ヒュームは自殺是認論どころか、肯定論を宗教的な色彩無く開陳してトマス・アクィナスを批判した。それに対してカントがこれまた宗教色無く自殺を否定した。
このように自殺に対する態度は時代ごとに変転してきた。日本ではついこの前の大戦まで「生きて虜囚の辱めを受けず」と教育した。
こうした歴史を踏まえずに、ただ自殺はやめましょう、では通らないだろう。ちょっとマセた中学生なら、上記のようなことを言うはずである。それを論破できる教師はいない。
教師が自殺予防教育にとまどうのも、まったく無理のないことなのである。