院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

小保方さんや理研を責めてはならない

2014-03-10 20:58:10 | 学術

nature publishing groupe より引用。)

 論文を投稿したことがある人なら知っていることだが、レフェリー(査読者)からの返事には3通りある。不採用と条件付き採用と無条件採用である。無条件採用は、よほど格の低い雑誌でなければ、ふつうはない。

 レフェリーは頭が下がるほどに投稿論文を読みこんでくれる。そして、ほんのわずかな矛盾でも見つけ出して指摘する。レフェリーは無償でそれをやる。私はレフェリーから返事をもらうたびに、いつも感謝していた。レフェリーはケチを付けるだけが仕事ではない。論文に少しでも見るべき点があれば、そこを伸ばすようにアドバイスをくれる。

 レフェリーはいつも、この論文をこれまでの常識と合わないという理由で不採用にしたら、ノーベル賞級の発見をボツにしてしまうかもしれない、という不安をもっているそうだ。

 レフェリーは論文の内容を自分で追試するわけではない。だから、新規性と説得力がある論文は取りあえず掲載して、再現性の証明は他の多くの研究者に任せる。その結果、再現性のない論文は闇へと消えていく。そのような論文は山ほどあるのだ。雑誌に掲載されるとは、そういうことである。その点についてはすでに指摘しておいた。(2014-01-31)

 このたびのSTAP細胞の論文も、闇へ消えていく論文の一つだったに過ぎず、別に珍しいことでもなんでもない。小保方さんや理研の人たちに悪気なんて全然ない。大きく取り上げておいて、間違いだと分かると袋叩きにするのがマスコミのいやらしいところだ。

 追試で再現性が認められないとバレるのが前もって分かっているのに、論文を投稿するバカはいない。自分のところでは確かに結果が出たから、しつこく再投稿したのだ。小保方さんや理研を責めてはならない。

 論文が雑誌に掲載されることがゴールなのではない。これから歴史の風雪に堪えていけるかどうかが試されるスタート地点に立っただけなのだ。

「見立ての句」は、やはりいけない

2014-03-10 06:08:33 | 俳句
 「松を剪定した。松もさっぱりして気持ちがよいことだろう」という言い方があるが、松が気持ちがよいと感じるはずがないので、例えば次のような句は「見立ての句」といって俳句としてはアウトである。

  松手入れ松は気持ちがよささうに

 だが、私が所属する名古屋の俳句結社では、人ではなくモノを主語にするケースが見かけられる。へたをすると「見立ての句」になってしまう。次の俳句を昨日詠んだ。たいした俳句ではないが・・。

  風車群河津ざくらを足下に見

 この句は「風車群」が「河津ざくら」を見ているようにも読める。だが、主語は私とも読めるので、ぎりぎりセーフか?


(渥美半島蔵王山から見た発電風車群。)

 昨日の中日新聞愛知県版の俳句欄に次の句が採用されていた。

  紅白の鯉春の水たのしめり M.S.

 これは鯉が楽しんでいると作者が思い入れしているから、アウトだと思う。さらに言えば、季語「春の水」は「雪解水」を意味を内包しており、季語「寒の水」よりは暖かいが、季語「水ぬるむ」よりは冬の厳しさが残る。季語が妥当かどうかは微妙。助詞を省きすぎの感も。

 虚子は思い入れを嫌って「客観写生」を強調した。「客観写生」でありながら、心情が分かる句が最上である。それを私は「主観写生」と呼んだことがある。(2012-09-20)