院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

医学博士号の取り方

2014-03-17 04:54:51 | 学術
 2014-03-13 の記事で、医学博士号は学位の中でもっとも価値が軽いと書いた。医学博士号の取り方を述べよう。

 最終段階から先に言うと、最終的に博士論文は博士号を出す大学の教授会を通らなくてはならない。医学部の教授会は基礎(生化学、病理学など)の教授と臨床(内科、外科など)の教授合わせて50人ほどから成る。

 教授会に出される論文はすでに出版されていなくてはならない。出版媒体は、それこそ Nature でもよいし、先日来書いてきた誰も読まない学内雑誌でもよい。この段階で出版媒体が問われないから、多くの医者は掲載が楽な学内雑誌に載せるのだ。大学院生であってもそうでなくても、ここは同じである。

 教授会の先生たちは、みなよく論文を読む。なぜかというと、教授連が真面目だということもあるが、論文の内容はほとんどが自分の専門外なので、若い学位希望者に馬鹿にされたくないということもあるだろう。論文の(内容ではなく)体裁がおかしいなら、ここで必ずはねられる。(だから、小保方さんの学位論文が、なぜ教授会を通ったのか不思議なのだ。少なくとも無意味な文献欄は誰が見てもおかしい。)

 教授会で過半数の支持を得れば学位が認められる。(ほかに面接試験や語学試験があるのだが、本質的ではないので省く。)実際は過半数を割ることはないらしい。だが、たとえ過半数に達していても、7人も8人も不支持者が出ると、担当教授はものすごく恥ずかしいのだそうだ。

 だから、担当教授は学位論文を綿密に読む。査読者のいない雑誌なら担当教授が読むしかない。(先日、小保方さんの学位剥奪よりも前に、大学院側の学位授与権を剥奪せよと言ったのは、そのためである。)

 そこで、読者が疑問に思われるだろうところは「担当教授はどうやって決まるのか?」というところだろう。大学院生でなければ、これはもうコネというよりない。まったく知らない人が「教授会に出してください」と教授のところに論文をもってきても、「はい分かりました」とはならない。

 教授会に学位論文を架けられるのは教授の専権事項である。この権限が、教授が若い医者の人事に口を出せる権力のひとつだった。直接は言わないが、僻地への赴任を示唆されることもあった。(現在、そのようなことはないらしい。その代わりに僻地に行く医者がいなくなってしまった。)

 1970年ころ、人事に利用されるくらいなら学位は必要ないと、「学位返上運動」が起こったことがあった。学生運動の鎮静化とともに、その運動も消えたが。

 学位授与には大学院を出るコース以外の方法があることを、上に少し書いておいた。教授に直接頼んで、論文だけを教授会に架けてもらう方法がそれである。このような方法で授与された博士を「論文博士」という。効力は大学院博士と同じだが、大学院(4年)よりも2年多く経験が必要である。

 ここまで読まれて、読者はある可能性に気付かれただろうか?それは担当教授さえ決まってしまえば、誰が学位論文を書いてもよいということだ。担当教授に謝礼を払って彼に論文を書いてもらうことが、むかしはあった。医学博士号が金で買える時代があったのだ。(むかしはバレてもスキャンダルにならなかったが、いまはなる。)