(1)大相撲が今も国技(national sport)なのか大いに疑問の残るところだ。力士人材不足解消のために日本相撲協会が外国人力士に門戸を開いた時点で、日本古来、古式の伝統文化としての大相撲はグローバルなプロスポーツとしての道を歩み始めていたからだ。
現在の力士地位図を見れば国際化の影響はあきらかで、横綱3人がすべてモンゴル出身力士でモンゴル出身力士を中心に上位は外国人力士で占められて、近年は日本人力士の優勝もお目にかかれない国際化だ。
(2)日本相撲協会が外国人力士に門戸を開いた時点でどういう大相撲世界を描いていたのか、単に人材確保、継承、存亡を託していただけなのか考えて対処していたとはとても受け取れない、その後の外国人力士による日本の伝統文化継承になじめない所作、習慣の違いのあらわれであった。
外国人にとっては一獲千金を目当て、目指しての大相撲入門であって、勝って番付を上げて地位と収入を得ることが目的であり、神聖な土俵での勝っての表現など押さえることなどできないものであったに違いない。
(3)勝つ執念が強い分、日本人力士を圧倒して闘争素質を開花させて地位と収入を格段に高めていった。日本古来、古式(old rite)の相撲伝統文化の中に納まることなど日本人でも時代錯誤の強い中で到底無理な話で、日本相撲協会としても人材不足解消のために外国人力士に門戸を開いた時点で思想、伝統、文化の大転換が必要であったが、仮に意識革命(conscious revolution)もそれも同時に実施しようとすれば相当の社会的反発があったことは容易に想像できるところだ。
そもそもいくらなんでも今日のこれほどの外国人力士全盛、興隆時代(the age of prosperity)の到来、日本人力士の衰退など予想もしていなかったのではないのか。
(4)現在の大相撲も1強多弱時代を迎えている。横綱白鵬があの大鵬の記録を抜いて無人未踏の優勝33回の異次元の強さを発揮している。優勝後のインタビューで場所後半の注目の取り組みの「取り直し」の一番にもともと勝っていたと注文をつけて、ビデオ判定確認も含めて審判の取り直し判定に大いに不満を述べてみせた。
力士の白星が生活にかかっていること、とりわけ横綱には「勝つ」ことが宿命(fatality)づけられていることを前提に強調したものと思われるが、この発言が審判批判として横綱審議委員会なる組織から横綱の地位、品位にふさわしくない発言との厳しい指摘にさらされている。
(5)日本相撲協会、外部委員も含めた横綱審議委員会は常に横綱には地位にふさわしい「常勝(ever victory)」を義務付けており、これは外国人力士の横綱白鵬にとっては同じ価値観であり相撲倫理観で容易に理解受け入れることはできるものだろう。
ならばその力士が「勝ち」にこだわる、日本相撲協会ほかも望む「常勝」の執念、目的発言は理解されて当然のものである。そうでなければ日本相撲協会ほかが「二重基準」を押し付けている理解不能になるからだ。
(6)横綱が「常勝」を宿命づけられて、なおかつそこに横綱としての品位とか理性とかものわかりのよさまでも特に外国人力士に求められては、「勝つ」ことが生活のためにすべての外国人力士には到底理解などできない世界観なのだ。
日本相撲協会が国際スポーツとしての大相撲の門戸を開いた時点で、意識革命をしてこなかった自己矛盾(self contradiction)の結果である。
現在の力士地位図を見れば国際化の影響はあきらかで、横綱3人がすべてモンゴル出身力士でモンゴル出身力士を中心に上位は外国人力士で占められて、近年は日本人力士の優勝もお目にかかれない国際化だ。
(2)日本相撲協会が外国人力士に門戸を開いた時点でどういう大相撲世界を描いていたのか、単に人材確保、継承、存亡を託していただけなのか考えて対処していたとはとても受け取れない、その後の外国人力士による日本の伝統文化継承になじめない所作、習慣の違いのあらわれであった。
外国人にとっては一獲千金を目当て、目指しての大相撲入門であって、勝って番付を上げて地位と収入を得ることが目的であり、神聖な土俵での勝っての表現など押さえることなどできないものであったに違いない。
(3)勝つ執念が強い分、日本人力士を圧倒して闘争素質を開花させて地位と収入を格段に高めていった。日本古来、古式(old rite)の相撲伝統文化の中に納まることなど日本人でも時代錯誤の強い中で到底無理な話で、日本相撲協会としても人材不足解消のために外国人力士に門戸を開いた時点で思想、伝統、文化の大転換が必要であったが、仮に意識革命(conscious revolution)もそれも同時に実施しようとすれば相当の社会的反発があったことは容易に想像できるところだ。
そもそもいくらなんでも今日のこれほどの外国人力士全盛、興隆時代(the age of prosperity)の到来、日本人力士の衰退など予想もしていなかったのではないのか。
(4)現在の大相撲も1強多弱時代を迎えている。横綱白鵬があの大鵬の記録を抜いて無人未踏の優勝33回の異次元の強さを発揮している。優勝後のインタビューで場所後半の注目の取り組みの「取り直し」の一番にもともと勝っていたと注文をつけて、ビデオ判定確認も含めて審判の取り直し判定に大いに不満を述べてみせた。
力士の白星が生活にかかっていること、とりわけ横綱には「勝つ」ことが宿命(fatality)づけられていることを前提に強調したものと思われるが、この発言が審判批判として横綱審議委員会なる組織から横綱の地位、品位にふさわしくない発言との厳しい指摘にさらされている。
(5)日本相撲協会、外部委員も含めた横綱審議委員会は常に横綱には地位にふさわしい「常勝(ever victory)」を義務付けており、これは外国人力士の横綱白鵬にとっては同じ価値観であり相撲倫理観で容易に理解受け入れることはできるものだろう。
ならばその力士が「勝ち」にこだわる、日本相撲協会ほかも望む「常勝」の執念、目的発言は理解されて当然のものである。そうでなければ日本相撲協会ほかが「二重基準」を押し付けている理解不能になるからだ。
(6)横綱が「常勝」を宿命づけられて、なおかつそこに横綱としての品位とか理性とかものわかりのよさまでも特に外国人力士に求められては、「勝つ」ことが生活のためにすべての外国人力士には到底理解などできない世界観なのだ。
日本相撲協会が国際スポーツとしての大相撲の門戸を開いた時点で、意識革命をしてこなかった自己矛盾(self contradiction)の結果である。