■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■
紅い サルビア
空堀川沿いにて (撮影: H290828)
| ![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/f4/43607f082ebe50130f8fb4f70c7cfc1d.jpg)
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神様がもし私に 「何処か? 行きたい所はないか?」 と、尋ねてくれたら 「介護と言う言葉も無い、介護と言う仕事も無い国へ連れて行ってください」 と答えるつもりだ。
妻を介護するようになってからもうすぐ12年、嫌と言うほどこの介護で苦しみ、実際の介護で悩んだ。と、言っても、それは耐えることの出来ないほどの苦しみでも無かったことは幸いだった。
「よく奥さんの面倒を見ていますね」 との褒め言葉を頂くことがあるが 「妻だから介護しない訳にもいきませんから」 と、答えるが、それはまんざら口から出任せの言葉でも無く、本音に近いのが事実だ。
だがまだ私は恵まれていると思っているが、それは妻が寝た切りの状態ではないからだ。もし、妻が寝た切りになったら、果たして私は妻を介護できるであろうか? と、先行き不安の世界に陥ってしまう。
だから妻の要介護レベルが上がらないことをいつも願っているが、今より良くなることはあり得ないから、覚悟してその時を待つしかないだろう。
実際に寝た切りの人を介護している方は、私が想像できないほどの大変な気苦労を伴っているに違いない。
幸いにも妻は最近、特に気になる容体の変化が無いから、私の心配度も下がっている。だがいわゆる現状維持の状態は 「良好な状態が続いている」 ことではないから、いつ変化が起っても不思議ではない。
いつか 「人生最後の修行が介護することである」 との言葉を聞いたが、私はその修行の真っ最中。その修行の成果はどのような形になって私の中に現れてくるのであろうか? それとも最後の修行だから、その結果を聞いてもどうにもならないことだろうか?
介護する者も苦労するが、考えてみれば介護されている人も不運である。両方とも自らが選んだことではないことに、人生の不思議さがあるのだろう。
未だに神様から 「何処か? 行きたい所はないか?」 の質問状は届いていないが、もう少し待ってみよう。
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