そろそろ終わろうと思いながら続きます。
話を道祖神に戻します。ここまで書いてきてお分かりだと思いますが、道祖神には村の境界線に建立される石碑タイプと藁人形タイプの二種類があります。
石碑タイプは村に災いが入らない様に建立するためのものだと言うのは間違い無いです。では藁の道祖神はどうなのでしょう。どうして道祖神を燃やしてしまうのか。
「どんと祭」は無病息災を願って正月飾りや門松を燃やします。そして「道祖神祭り」である。つまり藁の道祖神を燃やして無病息災を願う。これは罰当たりを覚悟で申し上げますが、道祖神が災いであり穢れである。道祖神が人々を病気にする側面もあるのではないでしょうか。
鬼渡神は疱瘡神であります。そして仁和多利大権現は子供の神様として信仰を集めている。それは疱瘡神である仁和多利大権現に疱瘡を撒き散らしてもらいたくない為に、子供の神様として祀られていると考えられます。七五三でも判ると思いますが、疱瘡は特に子供の命を奪うものですので。
道祖神も災いの神であり、災いを起こして貰いたくないから災いを防ぐ神として村の境界線に祀る。そして藁の道祖神は災いだから、災いを黄泉の国に持って行って貰う為に燃やすのではないかと私は考えます。
道祖神は国津罪である近親婚の罪を犯しています。その罪の象徴は男女の性器。道祖神の性器こそが国津罪の穢れです。その穢れを燃やしてしまう。燃やして穢れを祓い清める。それが「どんと祭」の本来の意味ではないかと思うのです。
そう考えると新たな問題が発生します。性器は生命の誕生の象徴でもあるという事です。
生命の誕生が穢れとなるのだろうか。そう問われると何とも言えなくなります。どうなのでしょうか。もう苦し紛れの考えですが、道祖神の藁人形を燃やす行為は焼畑農業を示してしているのかも。
焼畑をして灰を養分として新たな五穀豊穣をもたらす。スサノオ尊に殺された大月姫の死体から五穀豊穣の恵みが発生したのと同じ意味合いです。性器タイプの藁の道祖神を燃やして新たな命を願う。どうでしょうねぇー、この考え。
しょうがない。もう一度藁の道祖神を調べました。結果、道祖神を作る藁は人の頭や腹、腰等々、体の悪い箇所にスリスリ擦り付けてから道祖神を造るそうです。そうであるなら体の悪い点、体の災い、つまり病気を持って行って貰う為なのはやっぱり間違いないと思います。
そして死体も穢れです。穢れから新しい命が生まれる。有機農法も穢れから五穀豊穣が生まれる訳です。その考えが道祖神の罪に集合したのではないでしょうか。
私は穢れを持って行って貰う事と、穢れから新たな生命が誕生する事、どちらも正しい様に思います。三貴子もイザナギ尊の穢れから産まれた訳だし。
そうであるなら三貴子の誕生も道祖神ありきの様に思います。これを考えちゃいますと流石に説明は難しいです。瀬織津姫が「水の女」、「禊の女」と言われていた人間の女性とする説同様、記紀を引っくり返しちゃう事になります。これはいくら考えを練っても解答は難しいです。今日はこの辺で終わりたいと思います。
ではでは。