続きです。考察を開始します。
以上、掻い摘んで書いたつもりですけど少々長くなってしまいました。実は諸説あるのです。だから情報を網羅すると長くなっちゃうんですよね。
事実、東光坊祐慶が持っていたのは観世音菩薩像ではなくて薬師如来像で、薬師像をかざして祈ったら岩手が絶叫を上げて急死した。そしてその薬師像を本尊として弘誓山医王寺に安置。祐慶は福島県安達郡の油井村で一生を過したと言う話もあるんです。
観世音菩薩か薬師如来像か、白真弓観世寺か弘誓山医王寺か。どっちが本家でどっちが元祖かなんて今更わかりません。今回は白真弓観世寺に寄ったもんで、そっちのストーリーに少々脚色して書きました。大体、大まかはこんなもんだと思いますね。
さて、この「安達ヶ原の鬼婆」伝説ですが、突っ込みどころが満載です。先ず時代背景での疑問点ですが、岩手は京の都出身です。京都と言う事になります。
今から1200年以上も前に京都はあったのでしょうか。京都1000年の歴史と言います。京都が出来たのは1000年程前です。その200年以上前から京に都があったのか。もし在ったとしてもその当時の京の都には公卿が住むほど発展した街では無かったのではないか。この点がこの伝説はフィクションじゃないかと考えちゃいますね。
白真弓観世寺で岩手が使っていた出刃包丁??を見ました。錆びだらけでした。でも1200年もたっているかどうかは分かりません。黒塚は人力では考えられない大石が積まれていましたが、多分、縄文時代から続く巨石信仰が古墳時代の蝦夷に伝わっていた。それが鬼婆伝説に繋がったと思えます。
実は安達ヶ原の鬼婆が瀬織津姫を示していると知る前、この伝説に腹立っていました。
鬼婆の本名が「岩手」。「岩手」と言ったら「岩手県」です。岩手県の県名の由来は、盛岡市の三ッ石神社に鎮座する羅刹鬼と言う鬼の手形が押してある石から伝わっています。そして大和朝廷からすれば鬼は蝦夷となります。
つまり岩手は鬼である蝦夷。蝦夷なんて者は人肉を喰らう外道。殺して当然。生きているのが可哀想な存在。蝦夷の為にも殺してやるべきなんだ・・・・っと言う、蝦夷討伐の大和朝廷側の勝手な言い分が伝説になったと思っていましたので。
因みに三ツ石伝説は昔、羅刹鬼と言う鬼が盛岡市あたりで悪さをしていた。そこで村人は岩手山の噴火で飛んで来たと言われ、東顕寺境内に鎮座し、神が宿るとされる三つの石・三ツ石様に羅刹鬼の退治を願います。
そして次の日、羅刹鬼が三ツ石に縛られていた。羅刹鬼はこれに懲りて「もう悪さはしない。この地ににも二度と来ない」と約束。その約束の手形が三ツ石神社境内の鬼の手形の付いた石です。
三ツ石神社の祭神は少彦名尊ですが、三ツ石に宿る神は少彦名尊なのでしょうか。それとも羅刹鬼が少彦名尊なのかは知りませんが、少彦名尊が恵比寿様であるなら女の岩手はその妻の伊豆佐比売こと三島溝咋姫なのでしょうか。
岩手は鬼婆になったのだから鬼であります。でも「岩手」と言う名をどうして鬼婆伝説の作者が名付けたのか興味があります。岩手の正体か何かを伝えたかったと思うのです。
岩手は幸せな結婚生活が出来なかった。愛する娘を死なしてしまった。これに該当する女神が二人います。大山祇神の娘である「岩長姫」と「手名稚命」の姉妹です。記紀には岩長姫と手名稚命の接点が無いので、もしかしたら同神かも知れませんけど。
岩長姫は天孫であるニニギ尊に妹のコノハナサクヤ姫と共に嫁入りしましたが、醜い容姿だった為に岩長姫だけは返されます。そしてそれを悲観して岩長姫は自害しています。
手名稚命には8名の娘がいたが、奇稲田姫を除く7人の娘が八岐大蛇の生贄にされてしまった。
つまり、岩長姫と手名稚命の二人の悲しみは、岩手と同様の悲しみなのです。しかも岩長姫は醜い。手名稚命は老婆。年老いて醜い鬼女となった岩手と重なります。
それにお気付きだと思いますが、岩長姫の「岩」、手名稚命の「手」、合わせて「岩手」です。
私は鬼渡神からの考えから瀬織津姫は手長である手名稚命と、天孫族に恨みを持つ岩長姫ではないかと考えていましたが、この「安達ヶ原の鬼婆」である岩手が瀬織津姫がモデルであるなら、これも一つの証明になると思います。
続く。