諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その13

2022年10月26日 08時41分39秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
あっー、HSPなので色々考えが浮かび中々終われない。困ったと思いながら続きです。

北条家が隠した子供こそが北条泰時だと私は考えます。そして預かったのは北条義時です。自分の子供として育てた。

寺にでも預けたら有力御家人がそれを知り、泰時を神輿に乗せて北条家に挑戦してくる可能性もある。それを考えて義時が育てる事となったのでしょう。

さて、北条泰時は1183年生まれです。そして源頼朝と北条政子との最初の子である大姫は1178年に生まれ。長男の頼家は1182年生まれです。

そして頼朝は1182年に愛人の亀の前を中原光家、伏見広綱の屋敷に極秘に囲っていた。

当時は並みの御家人なら側室屋や妾を持つのは当然。武家の棟梁たる頼朝なら、普通は堂々と妾を持ったと政子にも言える筈です。

しかし、源頼朝は亀の前の存在を隠していた。

北条政子は頼家を妊娠中。阿波局も泰時を妊娠中。共に頼朝の子だったら、妾を持ったなんて口が裂けても言えません。それがバレたら、そりゃ政子も時政も激怒するでしょう。

だからこそ政子は前代未聞の壮絶なる後妻打ちを行った。時政も頼朝に怒り伊豆に帰った。その点も泰時が頼朝と阿波局との子供である可能性を示していると思います。

私、「鎌倉殿の13人」をしっかりと全話観ている訳ではありませんが、作者の三谷幸喜も泰時を頼朝の子としてニュアンス的に大河ドラマで表現していると思います。

先ずは双六中に上総広常が梶原景時に暗殺されるシーンで、広常は武衛、武衛と頼朝を呼んだ。武衛は将軍と言う意味。頼朝は広常から武衛と呼ばれていた。

そして幼少の泰時もぶえっー、ぶえっーと泣いていた。

ネットでは上総広常の生まれ変わりが泰時だと騒いでいましたが、私は父親が頼朝だからぶえっー(武衛)と泣かせたのだと思います。

三谷幸喜はこの件で色々語っていたようですが。

それと頼朝が生まれたばかりの泰時を見て、「わしに似ている」と言った点です。

事実、残された頼朝の自画像と泰時の自画像は本当によく似ています。共に面長で。

逆に義時の自画像は俳優の中村梅雀みたいなムサイ丸顔??をしてます。とても泰時の父親とは思えないです。

それに家来であったとしても、他人の子供を見て自分に似ていると言う常識のない者はそういません。以前に付き合っていたなら尚更似ているなんて言えないが、それを頼朝に言わせた。

その点も泰時が頼朝の子だと暗示させたのだと思います。政子も大変怒っていましたし。

そして三代目鎌倉殿である源実朝がゲイで、北条泰時が好きだった点です。

父親は共に頼朝。実朝と義時の母は政子と阿波局で血が繋がっているからルックスも似ている。親近感も感じる。だから好きになった。その暗示の為に実朝をゲイにして、泰時へ恋文的な歌を送った演出をしたのでしょう。

私的にはゲイである話は納得できませんが。


続く。




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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その12

2022年10月25日 10時16分45秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きでぇ~す。

で、あるのなら北条泰時の母親は誰なのか。

私は北条時政の娘であり、政子の妹であり、北条義時の姉?か妹?で、阿野全成の妻(妾?)。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では実衣、その人だと思います。

理由と言うか、謎と言うか、この実衣には分からないことが多くある。

その第一は史実では阿波局と称している事。こんな偶然ってあるのでしようか。だって阿波局って北条義時の最初の妻、泰時の母親も史実では阿波局と言うのですよ。

自分の姉妹と自分の妻が同じ名前。これっ、偶然で片付けられますか。どっちか名前変えるでしょう。何で同じ名前なのだろう。

そして北条義時も江間小四郎と呼ばれていた。義時である江間小四郎も二人いた。義時の妻の阿波局も二人いる。これは偶然の筈ないです。

吾妻鑑の作者が後世の読者に、真実に辿り着けるようにヒントとして残した。私はそう考えています。

そして曽我物語等に二つの伝承が残っています。

一つは「夢買い」の話。

或る日、阿波局は「掌に太陽と月を掴む夢」を見た。その話を姉の政子にした。

政子は「その夢は悪夢である。そなたに凶事が降りかかる予知夢である。その夢を実現させない為に私がその夢を買ってあげる」と言い、小袖で阿波局から夢を買い取ったと言う話です。

当時、夢は大事な情報源です。夢を重要視していました。阿波局も喜んで政子に自分の見た夢を売った。

私も夢占いの記事を書いていますが、太陽と月の夢。太陽は男で月は女。それを掌に掴むと言うのだから、良い結婚相手が現れると言う暗示の吉夢です。政子はしめしめと思ったでしょうね。

そして源頼朝の恋文の話。

頼朝は伊豆に流された。付き人は安達盛長ただ一人。頼朝は自分を監視している北条家の二女が大変な美人であると聞く。それで恋文を書き、安達盛長に渡してくるように頼む。

盛長は道中、「北条家の二女は大変な性悪女だ」との噂を聞く。それで盛長は考慮し、頼朝の恋文を美人の阿波局ではなく長女の政子に渡し、それで政子と頼朝が結ばれたと言う話です。

この話、嘘だと思います。だってラブレターを知ってて違う相手に渡すなんてありえないでしようから。私も頼朝なら「なんてことすんだ」と激怒しますよ。

これらの話、何を意味しているのか。それは源頼朝は本来、阿波局と結婚する筈だったと言うことです。

私、思うのですよ。本当は阿波局と源頼朝は結ばれていた。或いは北条政子とも二股交際していたと。

既に阿波局との間には男の子がいた。気の強い北条政子は半狂乱となった。父親である北条時政も大激怒し、とんでもない状態になった。

実の姉妹を頼朝の正室、側室に迎える訳にはいかない。これは北条家の恥。姉妹同士も気まずい。しかも平清盛の動向も気になる。

北条家は平家の血筋。それが源氏の御曹司との男子を儲けたとなったら平家からの攻撃を受ける。

一先ず阿波局と頼朝の子は隠しておこう。北条家はそう行動したのではないでしょうか。


続く。


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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その11

2022年10月24日 01時19分12秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
そろそろ終わらせたいです。続きです。

北条泰時が源頼朝の実の息子である。またはその可能性ですが、頼朝が結城朝光と並んで北条泰時を溺愛していた点が理由の一つです。

北条泰時が10歳の時、ある御家人が馬上にて泰時とすれ違った。それを見た頼朝は「何故、泰時に対し下馬の礼を採らないのか」と激怒。泰時は「非礼とは思っていない」と言うも頼朝はその御家人に対して所領を没収。反対に泰時には「非礼の御家人を庇った」として褒められ、頼朝から剣を送られています。

北条氏は自分の正妻の実家ですが、10歳の子供に対し「下馬の礼を取れ」と言うのですから、「自分の息子なんだぞ、失礼だろう」と言う気持ちが感じられるエピソードに思えます。私には。

そして泰時の幼名は金剛でしたが、頼朝が名付け親となり、自分の「頼」の字を取って「頼時」と名付けています。

頼朝が名付けた者は実子の頼家と御落胤説がある結城朝光、そして「頼時」と名付けられた泰時だけです。この三人には自分の名の文字を与えています。

しかし、頼朝が亡くなってすぐに「頼時」から泰時と改名している。これは頼朝の実子であることを隠したい意志があったように思います。

もし、源頼朝を暗殺したのが北条時政、政子、義時だったのなら、それを泰時も知っていたなら、私も「頼時」の名を改名します。北条氏に暗殺される可能性を考えて。

北条泰時が本当に源頼朝の実子であるのなら、母親は誰なのか。

大河ドラマでは泰時の母親は伊東祐親の娘・八重姫となっています。この八重と言う名は後に付けられた名前で間違いないので本名は解らずです。

この説は「鎌倉殿の13人」の時代考察の方が採用したと思いますが、私は流石にあり得ないと思います。とんでもない相関図となりますので。

伊東祐親は京に赴任している時に頼朝と八重姫が出来てしまった。千鶴丸と言う男子ももうけていた。

伊東祐親が帰郷し、その事実を知り大激怒。

伊東家は平家。それなのに源氏の御曹司との子を娘が産んでしまった。平清盛の怒りを買う。伊東家は滅ぼされる可能性がある。それで自分の孫でもある千鶴丸を、川の淵に重しを付けて沈め殺害。

祐親はそれでも飽き足らず、頼朝と八重の縁を切らせる為に「乞食にでもくれてやった方がまし」と言って、江間小四郎と言う百姓??に八重を嫁がせています。

この江間小四郎ですが、北条義時の通称と同じです。だから大河ドラマでは義時と八重が結婚したとしたのでしょう。

でも、これはいくら何でもです。大体、吾妻鏡は鎌倉時代末期に書かれた書です。だったら江間小四郎ではなく、最初から北条義時と書くべきです。まっ、事情があったのでしょうけど。

八重は父親の伊東祐親が頼朝を殺そうとしていると知り、頼朝に知らせに行ったら既に頼朝は北条政子と暮らしていた。それがショックで八重も入水自殺したと吾妻鑑では伝えています。江間小四郎が義時であるならば、その事実は義時から聞いて知っていた筈です。

そして頼朝と伊東祐親は戦となり頼朝側が勝利。それでも伊東祐親は許されたのです。何たって伊東祐親の娘の一人は北条時政の前妻であり、北条義時の母親だったので。

つまり八重は義時の実の叔母です。妻であり叔母でもある。血の繋がりがある。そして時政とは実の父であり義理の弟になる。

伊東祐親の娘には三浦義村の父である三浦義澄に嫁いだ者もいますので、三浦義村は義時の義理の甥になっちゃいます。伊東祐親とは母方の祖父であり義理の息子になります。もう滅茶苦茶です。

伊東祐親は罪を許されましたが、頼朝と八重の子である孫の千鶴丸を殺している。それで娘の八重も自殺している。それを恥じて自害しています。

その点等々を考えて八重と結婚した江間小四郎は義時ではない。北条泰時は義時と八重との子供ではないと私は思っています。

もしその説を採るのであれば八重の年齢が気になります。伊東祐親は1100年前後の生まれで1182年に亡くなっている。

北条義時1163年の生まれです。伊東祐親が63歳の時に泰時が生まれている。だったら八重は何歳なのかとなります。

三浦義澄は1127年生まれ。北条時政は1138年生まれです。異母姉妹であっても1163年生まれの北条義時よりも大分年上と考えられます。もしかしたら1147年生まれの源頼朝よりも年上の可能性がある。

それはいくら何でもです。


続く。




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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その10

2022年10月23日 09時10分29秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きです。

私が「鎌倉殿の13人」のラストを描くとしたらどうするか。

三谷幸喜は「源実朝=ゲイ」説で来ましたからね、そう言う事なら私も頭にあったストーリーを思い切って描かせて貰います。

先ず、真夜中の部屋の中、蝋燭の光の中に座す男が一人。その前には源義朝の髑髏と源頼朝の位牌が置かれている。その後ろから老婆が声をかける。

「全てお主の思惑通りに行ったな」。蝋燭の光の中、照らされた老婆は歩き巫女だった。

その歩き巫女の後ろには源頼朝、源頼家、源実朝の亡霊が浮かび上がる。

男は座したまま歩き巫女の問い掛けには答えず、ただ髑髏と位牌を見ているだけ。

その男の顔が蝋燭の光の中に照らし出された。悲しくも僅かに微笑みを見せていた。

その男は北条泰時。それで「鎌倉殿の13人 完」とします。

源氏と平家の戦い。それは平清盛が亡くなり安徳天皇が入水して終わったと思っている人が多いでしようが、続いていたのです。

戦国時代は甲斐源氏の武田氏を滅ぼした平家の血筋の織田信長。その信長の天下を奪った秀吉から取り上げた源氏を称する徳川家康。

その長く続いた徳川幕府を終わらせた平家である大江広元の血筋の毛利氏。

もしかしたら現代も源氏と平家の戦いは続いているのかも知れません。

さて、何故、源頼朝は伊豆に流されたのか。それは坂東平氏に囲まれた土地。源氏にとっては敵地だからです。

平清盛は源氏を倒した後、武家であるのに公家の如く振舞った。武家ではなく貴族にあらんとした。その威光は天皇家を上回った。

それを関東の地で苦々しく思っていた坂東平氏。そこに源氏の御曹司である源頼朝が流されてきた。

坂東平氏にとって源氏は敵である。しかし、同族である平清盛が許せない。我らも権力・権威が欲しい。領地を広げたい。それで源頼朝を神輿に担ぎ上げた。坂東平氏の期待を裏切った平清盛を倒す為に。

っとは言え、源氏は敵なのである。源頼朝の神輿の前に団結した坂東平氏は領地欲しさに、私欲で源頼朝に関係なく源氏の血筋である佐竹氏を襲った。

更には頼朝の名の元に同じ源氏である武田信義を屈服させ、木曽義仲をも滅ぼした。源氏の勢力は削がれ、頼朝に集中した。

そして頼朝の兄弟も危険視して滅ぼされ、頼朝の死後はその息子達も殺された。坂東平氏は源氏を滅ぼした。

結城朝光は源頼朝の御落胤との説がある。頼朝が平家討伐に立ち上がった時、頼朝の乳母だった寒河尼が末子(娘の子との説もあり)とされる14歳の結城朝光を連れてきて、戦に加えてくれと願う。

喜んだ頼朝は朝光を元服させた。朝光の名はその時に頼朝が自身の「朝」と取って名付けた。その後、頼朝は溺愛と言えるほど結城朝光を重用した。

結城朝光は藤原秀郷流の家系だが、後に源氏姓を名乗っている。多分、御落胤説は当たっていると思う。

その結城朝光を滅ぼそうとした男がいた。梶原景時である。朝光は「武士は二君に使えず。自分は頼朝様の死後は出家すべきだった」とこぼした言葉を梶原景時に聞かれ、景時は「結城朝光に謀反の疑いあり」と源頼家に讒言した。

梶原景時は讒言で源頼朝に弟・義経まで殺させている。源頼家も結城朝光が頼朝の御落胤だと知っていたら、自分の地位を脅かす存在だと思う。

その事で結城朝光は三浦義村と相談。義村は66人の鎌倉御家人から梶原景時への連判状を集め頼家に提出。

頼家は66人の御家人を敵に回すことに恐怖し梶原景時の排除を命じ、梶原景時は一族を率いて上洛。その途中で北条時政の兵に討たれた。

それで頼家はバックボーンを失う。飾りの鎌倉殿となった。

その出来事を北条泰時は自分の出来事の様に心に刻んでいたと思います。

私は北条泰時は源頼朝の実子であると考えております。自分も結城朝光の生き方、そして源頼家の人生から、己の生き方を学んだのだろうと思います。。


続く。
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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その9

2022年10月21日 11時24分30秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
こんなに前置きが長くなるとは・・・・。続きます。

承久の乱での勝利。そして3年後の死。北条義時の生涯の目的を達成した。自分の人生に満足して亡くなったのだろうか。

1~2年で義時、伊賀の方、北条政子、大江広元が相次いで亡くなった。自分の役割を終えたように。

義時は享年62歳。当時としては平均寿命なのかもしれないが、父親の時政は77歳まで生きていた。

北条政子は68歳。大江広元は72歳で亡くなった。急死しても不思議な年齢ではない。しかし、短期間でこんなにも主要人物が続けて亡くなるものだろうか。

伊賀の方は多分、40代~50代だったと思います。流罪となって失意の自殺も考えられる。

しかし、源氏・北条氏の流罪は現地で殺されるケースが多い。伊賀の方には義時暗殺の疑惑もあった。

伊賀の方の死が暗殺だったら、誰が殺したのか。一番怪しいのは北条政子でしよう。伊賀の方と争った相手ですし、政子は自分の息子である源頼家を流刑地で暗殺した過去もある。

伊賀の方は自分の息子の北条政村を次の執権にしようと画策した。だとしたらライバルとなる北条泰時の可能性もある。

しかし、北条泰時は伊賀の方による北条義時暗殺は否定している。私もそう思う。夫の義時を殺すメリットが分からない。

三浦義村は北条政村の乳母父。政村が執権になった場合のメリットは享受出来る。

しかし、三浦義村は既に鎌倉幕府での己の権威を確立している。新たな鎌倉殿は三浦義村が選ぶ立場となった。朝廷とのパイプも義村が握っている。事実上、鎌倉幕府でのナンバー1の立場に上り詰めている。

その上、北条政村の執権を支持すれば、北条政子、時房、そして泰時側と対立してしまう。

三浦義村は北条氏の怖さを十分に承知している。鎌倉幕府を全て自分の手にする事は危険だ。北条政子に反対されれば、その意見に従う方が身の為。

では何故、三浦義村は北条政村の執権を擁護したのか。

もしかしたら北条義時の遺言だったのではないか。北条義時は泰時の執権就任を望んでいなかったのではないか。

通例では母方の家柄がものを言う。泰時の母の家柄は不明。地位は低いと思われる。だとしたら次の執権には北条政村がなるのは当然。

その外にも何か理由はあったのか。

あったとしたら、その理由は・・・・・。


続く。



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