過去を飾り立てるのが嫌いだ。
若い頃、日本各地の山を登っていると、よく聞かされたのが「源氏の末裔」話。山間の寒村のことだし、話題にも乏しいのだろうが、呆れるほど聞かされたものだ。
要するに、今は落ちぶれているけれど、昔は凄かったのよってことだと思う。一応、礼儀として素直に聞いていたが、内心バカじゃなかろうかと思っていた。
別に源氏だろうが、平家だろうが関係ないだろう。大切なのは今、どうあるかであり、これからどうするかだと思う。過去の栄光にすがっている以上、若い者が村を出て行くのは当然だ。そう冷淡に考えていた。
今にして思うと、私は若さゆえに思慮不足だった。彼らとて、それが虚勢であることは分っていたのだろう。村の中だけなら、高貴な血筋なんて過去の虚像は必要ない。私らのような外部の、しかも都会の人間が入ってきたがゆえに、虚勢を張らざる得なかったのだと思う。
だからこそ思う。なぜにジンギスカンが源義経でなければならないのだ。こんな奇説が生まれたのも、大陸つまりシナの文化への対抗意識だったのかもしれない。要するに劣等感の裏返し。
表題の本を、初めて読んだのは高校生の頃だった。恥ずかしながら、当時はけっこう信じ込んだ。なんて凄い発見なんだと小躍りした覚えがある。さすがに今では、ありえないというか、あれほど系図のはっきりしている人物の日本人説は成立しないと考えている。
さりとて、歴史ミステリーの入門としての面白さは認めている。伝奇小説のネタとしてなら十分に面白い。「ベルセルク」でブレイクした三浦健太郎が、このネタで漫画を描いている。これもけっこう面白い。フィクションと分って楽しむならば良し。
でもね、英雄の親が英雄である必要はない。立派な人物は、その人物が立派であれば十分で、先祖がお偉い必要はないと思う。私は普通の庶民の親のもとで育ち、普通の庶民として生きていくだけで十分だ。過去に高貴な血筋なんて必要ない。たとえ犯罪者の子孫であろうと構わない。自分が犯罪者でなければよいのだから。
若い頃、日本各地の山を登っていると、よく聞かされたのが「源氏の末裔」話。山間の寒村のことだし、話題にも乏しいのだろうが、呆れるほど聞かされたものだ。
要するに、今は落ちぶれているけれど、昔は凄かったのよってことだと思う。一応、礼儀として素直に聞いていたが、内心バカじゃなかろうかと思っていた。
別に源氏だろうが、平家だろうが関係ないだろう。大切なのは今、どうあるかであり、これからどうするかだと思う。過去の栄光にすがっている以上、若い者が村を出て行くのは当然だ。そう冷淡に考えていた。
今にして思うと、私は若さゆえに思慮不足だった。彼らとて、それが虚勢であることは分っていたのだろう。村の中だけなら、高貴な血筋なんて過去の虚像は必要ない。私らのような外部の、しかも都会の人間が入ってきたがゆえに、虚勢を張らざる得なかったのだと思う。
だからこそ思う。なぜにジンギスカンが源義経でなければならないのだ。こんな奇説が生まれたのも、大陸つまりシナの文化への対抗意識だったのかもしれない。要するに劣等感の裏返し。
表題の本を、初めて読んだのは高校生の頃だった。恥ずかしながら、当時はけっこう信じ込んだ。なんて凄い発見なんだと小躍りした覚えがある。さすがに今では、ありえないというか、あれほど系図のはっきりしている人物の日本人説は成立しないと考えている。
さりとて、歴史ミステリーの入門としての面白さは認めている。伝奇小説のネタとしてなら十分に面白い。「ベルセルク」でブレイクした三浦健太郎が、このネタで漫画を描いている。これもけっこう面白い。フィクションと分って楽しむならば良し。
でもね、英雄の親が英雄である必要はない。立派な人物は、その人物が立派であれば十分で、先祖がお偉い必要はないと思う。私は普通の庶民の親のもとで育ち、普通の庶民として生きていくだけで十分だ。過去に高貴な血筋なんて必要ない。たとえ犯罪者の子孫であろうと構わない。自分が犯罪者でなければよいのだから。