人の生き様から学べることって、多いと思う。
著者は美大出身の漫画家だ。ヒット作はあるにはあるが、まだまだ一般的な知名度は低いと思う。実際、当の本人が描きたいものと、求められるものとのギャップに悩み、その苦悩の果てに思いついたのが表題の漫画だ。
著者が注目している人々との対談により、インスピレーションを求める企画なのだが、漫画によるインタビューの表現という形をとる。この形式は私の記憶では現代洋子の「おごってジャンケン隊」が最初だったと思うが、たしかに文章と写真だけによる対談集よりも表現に富んだものになるようだ。
なかでも私が注目したのが、「SLUM DUNK」「バカボンド」と超大ヒットを連発する井上雄彦との対談だ。二人は以前からの友人であったようで、あまりメディアに露出することの少ない井上氏の本音が覗けるのが興味深い。
私はスポーツ漫画の最高峰に、迷うことなく「SLUM DUNK」を挙げる。なかでも単行本の最終巻の山王戦の50ページあまりは、漫画という表現方式の頂点だと信じている。
信じ難いのは、その後「SLUM DUNK」は全国制覇することなく、また花道や流川が進級して新たなチームを作ることもなく完結したことだった。信じられない。あれほどの人気を誇った漫画を、あのような形で終わることを週刊少年ジャンプ編集部が許すなんて、在り得ない。あるはずがない現実だった。
その疑問が、この対談でようやく解けた。井上氏の妻(幼馴染み)がいみじくも語ったように、井上雄彦はいつも「一人の人」つまり個人として確立している人物なのだろう。周囲に流されることなく、自分の考えにのみ従い、その信念を断固として貫く人なのだろう。だからこそ、「SLUM DUNK」は終わることが出来た。
集団に合わせることなく、雰囲気をぶちこわしても、自らの考えを貫きとおす信念の漫画家が井上雄彦なのだと分った。その井上氏が目指すのは「人とつながること」だそうだ。
そういえば、「SLUM DUNK」の山王戦のラストは、孤高の天才・流川が花道に出したパスが決め手だった。それを引き出し、表現しただけでもこの企画は成功なのだと思う。
著者は美大出身の漫画家だ。ヒット作はあるにはあるが、まだまだ一般的な知名度は低いと思う。実際、当の本人が描きたいものと、求められるものとのギャップに悩み、その苦悩の果てに思いついたのが表題の漫画だ。
著者が注目している人々との対談により、インスピレーションを求める企画なのだが、漫画によるインタビューの表現という形をとる。この形式は私の記憶では現代洋子の「おごってジャンケン隊」が最初だったと思うが、たしかに文章と写真だけによる対談集よりも表現に富んだものになるようだ。
なかでも私が注目したのが、「SLUM DUNK」「バカボンド」と超大ヒットを連発する井上雄彦との対談だ。二人は以前からの友人であったようで、あまりメディアに露出することの少ない井上氏の本音が覗けるのが興味深い。
私はスポーツ漫画の最高峰に、迷うことなく「SLUM DUNK」を挙げる。なかでも単行本の最終巻の山王戦の50ページあまりは、漫画という表現方式の頂点だと信じている。
信じ難いのは、その後「SLUM DUNK」は全国制覇することなく、また花道や流川が進級して新たなチームを作ることもなく完結したことだった。信じられない。あれほどの人気を誇った漫画を、あのような形で終わることを週刊少年ジャンプ編集部が許すなんて、在り得ない。あるはずがない現実だった。
その疑問が、この対談でようやく解けた。井上氏の妻(幼馴染み)がいみじくも語ったように、井上雄彦はいつも「一人の人」つまり個人として確立している人物なのだろう。周囲に流されることなく、自分の考えにのみ従い、その信念を断固として貫く人なのだろう。だからこそ、「SLUM DUNK」は終わることが出来た。
集団に合わせることなく、雰囲気をぶちこわしても、自らの考えを貫きとおす信念の漫画家が井上雄彦なのだと分った。その井上氏が目指すのは「人とつながること」だそうだ。
そういえば、「SLUM DUNK」の山王戦のラストは、孤高の天才・流川が花道に出したパスが決め手だった。それを引き出し、表現しただけでもこの企画は成功なのだと思う。